2009年12月15日火曜日

藤沢秀行

藤沢秀行は気になる人であった。

その真っ直ぐさと真っ直ぐであるが故の多くの軋轢を酒とともに乗り越えて行った碁打ちである。
彼の幸せは自分の周りに理解者(彼を理解しようとしていた人々)を持っていたことと彼の碁打ちとしての一途さとその才にある。

先日、再放送で藤沢秀行をテレビが取り上げていた。わたしはそれをラジオで聞いた。(基本的にわたしはテレビを見なくなってきていて、今後もそれが続くと思う)
そのなかで何人かが、藤沢秀行のような人はもう出ないだろうし、出てきてもらっては困ると同じようなコメントを述べていた。

出てきてもらっては困るというところが、正直なコメントでうれしかった。
そばにあまりにも真っ直ぐに生きようとしている人にいられては困るのだ。

秀行先生は存在する資格を十分にお持ちで、十分に愛された人であったが、それでもその人と接するのは大変だったのだろう。
隠し立てもなく自分を曝け出すように生きようとしたその姿は傍で見ていたくもあり、離れてしまいたくもあり。

秀行先生、その借金と浴びるように飲んだ酒を通して無頼派として名高い。
けれどもそのくくりでは捕らえきれまい。

彼は、激しく人を愛した人だと思う。
その愛し方がはたから見ていて、よくわからないものだったのだろう。
ふらふらしながらも真っ直ぐに生きた藤沢秀行は、多すぎる迷惑と暖かすぎる愛を受けて身罷った。

人は、もう秀行先生に出てこられては困るといっている。

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