2009年12月11日金曜日

落語の話

久しぶりにある人と落語の話を交えた。
そのときは、小三治の話をしたのだったが、ふと思いついた。

わたしが、惹かれるのは(話のうまい下手の評価とは別に)小三治、枝雀だが(もちろん彼ら以外に、あの人は好きだ、この人が好きだはあるが、たとえば真打なり立ての三三師匠とか)、この二人へのわたしの思いはどこからくるのか考えてもみなかったが、あっ、これかもしれないなということに気がついたというお話だ。

小三治、枝雀ともに根は暗い男である。
根は暗い男がお客さんに楽しんでもらおうと噺を練ってくるのである。
それは技巧だけではなく、もっと大きく自分という人間の有り様まで含めたものなのだが…
小三治師匠などは、自分のことが暗くてあまり好きじゃないと言っているし、面白みのない男だとも言う。
それをどのようにお客さんの前に出すかが彼の問題だ。
小三治の師匠小さんが「おまえの話は面白くない」と断定したのは嘘もホントもなく心からそう思ったことだろう。
それを潜り抜けての小三治がある。

枝雀もまた同じような道を潜り抜けては来たが、最後の最後に潜り抜け損ねた。
根暗のわたしもずっと笑っていたら本当の笑顔になるのではないかとは今思えば、枝雀の切ない呟きだ。

わたしもまた決定的に根暗である。
この根暗をいかんせんと生きてきたが、その前を前述の二人が歩いてくれていたということだ。
それは惹かれるわけだ。

枝雀亡き後、小三治もいつまでもとは行くまい。

わたしもわたしで自分のこの暗さとのつき合いをもう一度本格的に考えなければなるまい。

あのおふた方に深い感謝を捧げながら。

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