2009年12月20日日曜日

再読の効果

わたしの記憶力は最近とんと信用が置けなくて、前に読んだ本をまた読んでしまうことがある。
それでも読み出すと、うん?、これ前に読んだよな…、くらいは気づくのである。

人でもものでもそうだけれど、本もまた、そこにドデンと居座っていて、いつ行っても前と同じ本に出合えるというものではない。
本の内容は変わらないが、こちらが変わっているかもしれないからだ。
そういうとき、自分の変化を意識するのは、わたしにとっては意外と楽しいものである。

出合いは、相手や自分に属するのではなく、二つのものの間にその度にぷかりと浮かび上がるものだというのは、そういった意味である。

「上野千鶴子なんかこわくない」上原隆著(毎日新聞社刊)は、前に読んだ記憶があったけれど、何か気になって取り上げた本である。
この本が、いたく切なかった。

タイトルの上野千鶴子に関しての洞察よりは、どのような事情で上原さんが上野千鶴子と向かい合わなければならなかったのかが、まことに身につまされる。
端的に言えば、夫婦のすれ違いがその原因だが、そのところの事情が、第一章「私の事情」と「あとがき」にやわらかい書きっぷりながら、細々としたそのときの心の動きも含めて、読み手に伝わるように丁寧に書き込まれている。

その底には、著者ははっきりさせていないが、理詰めで何かを、誰かを追い詰めていく方法に決定的な落とし穴があることを予感させる。

その落とし穴ははっきりさせたほうがいいものだが、その落とし穴の指摘も強力な理詰めという武器に返り討ちされそうだ。
わたしの期待するのは、いまは、ほぼなくなってしまった村の長老の知恵のようなものだろうか。

長老の知恵は、天の啓示にも似て信じるところに発生する。
その知恵を疑い、理詰めで反駁したところで何かすばらしいものが出てきたためしはない。

もしも、長老の知恵を理論的に検証したときに矛盾があっても、捨て去るには大きすぎるわれわれにとっての助けがその中にはあったと思う。

上原さんのこの著書は、理詰めに対し理詰めで対抗しようと思ったものだが、その底に、

「理詰めだけじゃだめなんだよな」
「でも理詰めしか認めてくれない人もいるしな」
「もっと、やわらかに、あたたかく、ことは進まないものだろうか」

という声が聞こえる。

わたしとこの本の今回の出会いには、前と違って、この本の底からそういった声が聞こえるようになっていたことだ。

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