不可視なる作品
その人のイメージに恋をするのだ。
そう言ったのはわたしだが、随分前にユングが類似のことに言及しているし、その後精神分析学では誰かが言ってしまっているかもしれない。
それはともかく、素人は素人の潔さを持って論を進めるとしようか。
人は目の前の恋人を愛するのではない。
目前の恋人に喚起させられた身の内の恋人のイメージに恋をするのだ。
だから、恋をする身の内のイメージと実際の恋人との間にギャップが生まれる時、人は恋人に落胆し、あるときは怒り、あるときは別れる。
もし、あなたが自分の恋しているのは自分の中にある恋人のイメージであって、恋人そのものではないと知れば、恋愛も随分楽になるだろう。
で、今回は残念ながら別の話。わたしの誇り高きプライドについて。困った困ったわたしの理不尽なプライドについて。
わたしのプライドの根源は心の中に形成している気高き女性のイメージにある。
当然の事ながら、下衆なイメージを持つ男の多くはセックスできる対象としてあなたを見る。イメージがそうなのだから致し方ない。セックスできなければ、あなたは恋人として、男を落胆させることになる。まあ、落胆させればいいのだ、そういう下衆な野郎は。ただ、性自体はその男ほど下衆なものではない。性がすばらしいなどと陳腐なことを語る気はないが、性には大きな意味がある。(いつかブログで語る)
で、女性はわからぬが、この世のほとんどの男性はこういった下衆と思って間違いない。でも、そういう下衆が好かれることもママある。セックスは嫌われ者ではないからだ。
その時流に逆らって、わたしは心の中に質素でありながらあくまでも透明性を保持する芳しい花を育て続けた。そのイメージは少し前に遺伝子操作で創られてしまった青いバラをよそに置き、いまだにわたしの中に咲き続ける孤高の花だ。
わたしは、自分がこのイメージに恋をしていることを知っている。だから、そのイメージを喚起させる実在の人に近づきはしない。近づけば、わたしの作品である孤高の花が、忌まわしい実体によって砕け散るからである。
つまらぬことをつけ加えておけば、わたしが本当に恋をするときには、孤高の花ではないイメージを作り上げる。つまり、あまり理想は高くなく、実体に合ったイメージを。そうすれば、その人と会っていても決して嫌いにならないですむから。
で、結論なんだけど、わたしの誇りは、心の中に住む孤高の花のイメージに起因する。キミの貧困な心に住まうイメージの醜さはどうだと、わたしは時にバカにまでしてしまうことがある。その人がたとえ大会社の社長でも、有名な歌手でも、はたまた大家の小説家でも。貧困なる女性のイメージしか抱けぬだろう男達を見下してしまう。
それが、なんともしがたいわたしの欠陥なのだ。それを乗り越えねばならないだろうという気がする。最近、意外と有名な人に会う機会が増え、残念なことにそのほとんどが貧困なる女性のイメージしかもてないことを知ったからだ。
けれども、そのことを除いては、不可視なる作品の貧困を除いては、彼らはずっと社会的にわたしより偉いのだ。わたしは、頭を下げなければいけないと思う。そういう男達に。わたしの不可視なる作品が可視なる作品になるその日まで。
ラベル: 社会
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