2008年4月22日火曜日

松井冬子を見る




爆笑問題のラジオを聞いた日曜の夜、松井冬子をテレビで見た。
いまはこんな化粧(化生)をしているのかと言うほどきっちりと顔を描き髪をとかしていた。
わたしは短大時代、坊主にしていた彼女の写真を知っていた。

番組のなかでいろいろと彼女もしゃべっていたし、例によってNHKはお子ちゃま相手に詳しく解説をしてくれていた、埒も無い。
しかし、絵のことをいくらしゃべってもたどり着くところは限られている。
それを越えてどこかへ連れて行ってくれるとなると、前田英樹『絵画の二十世紀』(NHKブックス)のレベルになるわけで、そうやすやすとは期待できない。
だから、絵画も音楽も心して語らねば、書かねばならないのだが、そうでない御仁は山ほどいる。

さて、それはそれとして、なかなかに興味深い番組で絵というものが(実は絵に限らないのだが)、いかにテクニックに支えられているのかがよくわかった。
テクニックを磨くというところにしか作品への登り道は開けていない。
とば口にたどり着いて始めて自分の登ろうとする山がわかる。
そのとば口までは技術を磨くことでしかたどり着けない。

あれやこれやと音楽や文学や食い物やスポーツや絵画や…、と線路のようにいつまでも続くのだが、論をぶつ人間は、その時点で屍にすぎない。
とば口へ急ぐ人は、ただ技術を磨いているのだ。
それをしてプロと言う。(という考え方もあるということだ)

番組の最後のほうに上野千鶴子が出てきて、松井冬子と話す、というかインタビューする。
相変わらず、いけ好かない話し方だ。

上野千鶴子はとても相手の気分を害する話し方をする。(というのがわたしの判断で、その在り様はだいぶにましになってきてはいるが、いまだにあるな、とテレビを見ていて思った。
彼女と心地よく話すためにはある程度、彼女を敬愛していなければならないだろうなと思う。
そして幸いなことに、彼女は敬愛されるに足る実力をもっている。
しからば、わたしは彼女をどう思うかというと、ここでは言明しない。
書きっぷりでお分かり願いたい。
大切なことは、自分自身が対象を(人間でも食い物でも電車でも…ここでも線路のような長い半直線が延びていく)どのように思ってもそれは対象の評価とは別次元で、好きでも嫌いでも「いいもの」はいいということだ。
だから、ここでわたしが上野千鶴子を好まないといったところで、何の情報をあなたに与えることはないのだ。むしろ上野は実力のある社会学者であるという一文のほうがあなたの足しになるだろう)

さて、その上野は松井を「自傷系アート」とカテゴライズするが、それは単なる社会学的分析だけではなかった。
その日の松井とのトークにはその認識に身を寄せる上野がいた。

トークの最後のほう、上野は松井に
「だれも不幸せになるために生きているわけではないから幸せになれるのだったらその幸せを掴んでほしい。幸せになった後もあなたの作品はあり、その作品もわたしは見てみたい」
(わたしの記憶を繋ぎあわせてみるとこうなる)

なかなかの殺し文句で、松井も素直にうなづいていた。
番組は終わり、カメラは次第に引かれていったのだが、その引かれていく間中、上野は松井を見つめ続け、たまらぬように松井のひざに自分の手を差し伸べるのであった。
それは上野の限界を超えた自己の感情の表現であるように思えた。

上野千鶴子、はるかなり。

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