「あほな女」についてさらに
さらに「あほな女」について語る前にいま少し自殺者について触れておいたい。
自殺とは別に孤独死というジャンルがある。
孤独死という言葉は、もともとは神戸新聞が震災後の4月5日に使い始めた言葉だ。
今や、孤独死は高齢化社会が進む日本の中で、大きな問題のひとつとなっている。
【孤独死】
だれにもみとられずに死亡すること。特に,一人暮らしの高齢者が自室内で死亡し,死後しばらくし、初めて遺体が発見されるような場合についていう。
孤独死とは、一人暮らしの人が誰にも看取られることなく、当人の住居内等で生活中の突発的な疾病等によって死亡することであり、特に発症直後に助けを呼べずに死亡するケースを呼ぶ。
社会現象として阪神大震災から10年の間孤独死は減ることはない。
あの阪神大震災から10年たった今、孤独死は増え続けている。
正確に言えば、一時期は減ったらしいのだが、ここ最近また増えてきているらしく2004年度の孤独死者数だけで70人もの方がお亡くなりなったらしい。
まだまだ少ないとお思いだろうか。
私は、例の後期高齢者に対する保険問題と高齢社会のこの日本の現実でさらにこの数は増えるのだろうと思っている。
少し古い資料を抜粋すると高齢者世帯は以下のようである。
(国民生活基礎調査概況 一部抜粋)
高齢者世帯(65歳以上の者のみで構成、又はこれに18歳未満の未婚の者が加わった世帯)
(平4) 3,688,000世帯 1992
(平13) 6,599,000世帯 2001
(平18) 8,418,000世帯 2006
この数はいずれ単独高齢者世帯へとつながっていく。(かれらは我々よりずっと早く死んでいくからね)
高齢者も生きづらければ、中高年も生きづらい。
「生きづらければ死ねばいい」
という意見にわたしは組しない。
では介護すればいいのかといえば、それにも疑問符がある。
「Quality of life」の問題がかかわってくるからだ。
さてさてどうしたものか。
そういうことを考え出すきっかけとして「おひとりさまの老後」があるが、さらに議論は深めなければならないだろう。
単に生きながらえばいいという問題ではないだろうからだ。
わたしにしたところで「わたしの死の問題」を考えることがしばしばある。
そのとき、決して「健康第一」を金科玉条とはしない。
おそらく、生きていく集団の問題を考えねばならないと思っている。
核家族化を国家の指名のように背負ってきたこの国だが、核家族は高齢社会には向いてはいない。
では、戻ればいいのか。
時間は不可逆性という問題を常に潜んでいるからこれはなかなかややこしいし、早晩解決するとも思えない。
自殺者は増え、孤独死も増える。
介護保険は首を絞める。
物価上昇も首を絞める。
若者の仕事離れも首を絞めれば、家族の解体も首を絞める。
ただ、よくよく世の中を眺めればそういった流れを食い止めようとする小さな動きは起こっている。
その動きにわたしもまたどこかでつながっていきたく思っている。
さてさて
長すぎる前置きだが、本来の「あほな女」についての一文を加えて早々に終りたい。
身の内に寝かせているうちに少しだけ見えてきた。
自分にとっての「異物(自分のなかの何ものかと対峙するもの)」「未知のもの(自分のなかの何ものかと将来的に対峙するかもしれないもの)」と相対したとき、「あほな女」はあまり頓着しない。
なぜなら、自分のなかに守るべきものをそれほど多くはもたないからだ。
守るべきものをもってしまった者は、「異物」「未知のもの」を極端に毛嫌いする。
それは自分の中のある価値観と抵触するからだ。
抵触する価値観は概ね、国家が社会が会社が家族が与えたもので自分で検証されたものではない。
検証されていないものは、やみくもに正義としてそこに聳え立っている。(壊されるはずのないものとして)
しかし、そのように堅固なものがこの世に早々あるわけではなく、それは宗教という形をとったり(宗教にもいろいろあるわけだから、この物言いには気をつけたい)、社会で生きやすい錦の御旗だったりする。(錦の御旗は数を頼みに少数者を撃ってくる、あるいは勝ち組になりたいという浅薄な考えで少数者を撃ってくる)
勝ち組を好む女たちはすでに「小賢しい女」に成り果てそこにいる。(それは立場を変えれば立派な生き方だ)
男たちもまたそのなかにある。
そういう社会にあって、自分と向き合い剣が峰を生きていこうとする「愚かしい男」がいる。(この場合は剣が峰でなければならなく、断崖から飛び込むようなことはせぬがいい。このあたりは難しく、それなら端から剣が峰を歩くなという社会通念は当然のように沸き起こる)
究極の意味で「あほな女」とわたしが呼んだのはそのような「愚かしい男」の最後の砦としての愛すべき人たちのことだ。
ついでに言っておけば、過日若者に「あほな女にはもてる」と言ったのは「小賢しい女」になっていく途上の少し穢れ始めた「(?つきの)あほな女」でもあなたくらいな美男ならもてるだろうという揶揄を含んだものであった。
そういう意味では、若者に放ったわたしのコトバの非をここで詫びておかねばならない。(すまなかった)
「愚かしい男」にはどうしても「あほな女」が必要で、そういう人を愛することで愛し返され生きていくことが初めてできる。(多くはそんなふうになっている)
昔、さる歌人が自分の師匠筋の男にほれてこのように申していたのを覚えている。
「運命に風があるなら、わたしはその風に背中を押されて生きていきたい」
その風はその男とともに生きるように彼女の背中を押していたのだろうが、もちろんのことやわな道ではない。
わたしはその歌人を愛情をもって「あほやねえ」とつぶやきたい。
かような最も愛すべき者たちとして「あほな女」と「愚かしい男」はわたしの目の前にいる。
まさに愛すべき者たちとして。
自殺とは別に孤独死というジャンルがある。
孤独死という言葉は、もともとは神戸新聞が震災後の4月5日に使い始めた言葉だ。
今や、孤独死は高齢化社会が進む日本の中で、大きな問題のひとつとなっている。
【孤独死】
だれにもみとられずに死亡すること。特に,一人暮らしの高齢者が自室内で死亡し,死後しばらくし、初めて遺体が発見されるような場合についていう。
孤独死とは、一人暮らしの人が誰にも看取られることなく、当人の住居内等で生活中の突発的な疾病等によって死亡することであり、特に発症直後に助けを呼べずに死亡するケースを呼ぶ。
社会現象として阪神大震災から10年の間孤独死は減ることはない。
あの阪神大震災から10年たった今、孤独死は増え続けている。
正確に言えば、一時期は減ったらしいのだが、ここ最近また増えてきているらしく2004年度の孤独死者数だけで70人もの方がお亡くなりなったらしい。
まだまだ少ないとお思いだろうか。
私は、例の後期高齢者に対する保険問題と高齢社会のこの日本の現実でさらにこの数は増えるのだろうと思っている。
少し古い資料を抜粋すると高齢者世帯は以下のようである。
(国民生活基礎調査概況 一部抜粋)
高齢者世帯(65歳以上の者のみで構成、又はこれに18歳未満の未婚の者が加わった世帯)
(平4) 3,688,000世帯 1992
(平13) 6,599,000世帯 2001
(平18) 8,418,000世帯 2006
この数はいずれ単独高齢者世帯へとつながっていく。(かれらは我々よりずっと早く死んでいくからね)
高齢者も生きづらければ、中高年も生きづらい。
「生きづらければ死ねばいい」
という意見にわたしは組しない。
では介護すればいいのかといえば、それにも疑問符がある。
「Quality of life」の問題がかかわってくるからだ。
さてさてどうしたものか。
そういうことを考え出すきっかけとして「おひとりさまの老後」があるが、さらに議論は深めなければならないだろう。
単に生きながらえばいいという問題ではないだろうからだ。
わたしにしたところで「わたしの死の問題」を考えることがしばしばある。
そのとき、決して「健康第一」を金科玉条とはしない。
おそらく、生きていく集団の問題を考えねばならないと思っている。
核家族化を国家の指名のように背負ってきたこの国だが、核家族は高齢社会には向いてはいない。
では、戻ればいいのか。
時間は不可逆性という問題を常に潜んでいるからこれはなかなかややこしいし、早晩解決するとも思えない。
自殺者は増え、孤独死も増える。
介護保険は首を絞める。
物価上昇も首を絞める。
若者の仕事離れも首を絞めれば、家族の解体も首を絞める。
ただ、よくよく世の中を眺めればそういった流れを食い止めようとする小さな動きは起こっている。
その動きにわたしもまたどこかでつながっていきたく思っている。
さてさて
長すぎる前置きだが、本来の「あほな女」についての一文を加えて早々に終りたい。
身の内に寝かせているうちに少しだけ見えてきた。
自分にとっての「異物(自分のなかの何ものかと対峙するもの)」「未知のもの(自分のなかの何ものかと将来的に対峙するかもしれないもの)」と相対したとき、「あほな女」はあまり頓着しない。
なぜなら、自分のなかに守るべきものをそれほど多くはもたないからだ。
守るべきものをもってしまった者は、「異物」「未知のもの」を極端に毛嫌いする。
それは自分の中のある価値観と抵触するからだ。
抵触する価値観は概ね、国家が社会が会社が家族が与えたもので自分で検証されたものではない。
検証されていないものは、やみくもに正義としてそこに聳え立っている。(壊されるはずのないものとして)
しかし、そのように堅固なものがこの世に早々あるわけではなく、それは宗教という形をとったり(宗教にもいろいろあるわけだから、この物言いには気をつけたい)、社会で生きやすい錦の御旗だったりする。(錦の御旗は数を頼みに少数者を撃ってくる、あるいは勝ち組になりたいという浅薄な考えで少数者を撃ってくる)
勝ち組を好む女たちはすでに「小賢しい女」に成り果てそこにいる。(それは立場を変えれば立派な生き方だ)
男たちもまたそのなかにある。
そういう社会にあって、自分と向き合い剣が峰を生きていこうとする「愚かしい男」がいる。(この場合は剣が峰でなければならなく、断崖から飛び込むようなことはせぬがいい。このあたりは難しく、それなら端から剣が峰を歩くなという社会通念は当然のように沸き起こる)
究極の意味で「あほな女」とわたしが呼んだのはそのような「愚かしい男」の最後の砦としての愛すべき人たちのことだ。
ついでに言っておけば、過日若者に「あほな女にはもてる」と言ったのは「小賢しい女」になっていく途上の少し穢れ始めた「(?つきの)あほな女」でもあなたくらいな美男ならもてるだろうという揶揄を含んだものであった。
そういう意味では、若者に放ったわたしのコトバの非をここで詫びておかねばならない。(すまなかった)
「愚かしい男」にはどうしても「あほな女」が必要で、そういう人を愛することで愛し返され生きていくことが初めてできる。(多くはそんなふうになっている)
昔、さる歌人が自分の師匠筋の男にほれてこのように申していたのを覚えている。
「運命に風があるなら、わたしはその風に背中を押されて生きていきたい」
その風はその男とともに生きるように彼女の背中を押していたのだろうが、もちろんのことやわな道ではない。
わたしはその歌人を愛情をもって「あほやねえ」とつぶやきたい。
かような最も愛すべき者たちとして「あほな女」と「愚かしい男」はわたしの目の前にいる。
まさに愛すべき者たちとして。
ラベル: 社会
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