あほな女
先日とある飲み屋で
「あなたはあほな女には間違いなくもてるだろうな」
と若者に言ったが、後から思えば「あほな女」というのはなかなかに深いコトバであった。
若者に言った時点では、「あほな女=小賢しくない女」という感じで使っていたのだが、「あほな女」はそれほど単純な概念ではなさそうだ。
この場合,「あほな女]を一般的に概念規定するのは妥当ではなく、この女がいかに「あほな女」であり、あの女がいかに「あほな女」であるという道をたどりながら帰納的にある女のイメージが出てくればいいという話ではないかと思う。
ところで、当然のように「あほな男」はどうなのかという疑問は生じるが、こちらのほうは何の価値もない。(そう思っている)
この場合「あほな男」というのは自己認識能力のきわめて低い男で且つ自分をそこそこ過大評価している男を指す。(まったくもってオレではないか)
このタイプの男を、少なくともわたしは必要としない。(心配しなくていい、誰かがその男を必要とする可能性は十分にあり、世界人口のなかのたった一人である私があまりいらないと言っているだけのことだ)
この伝でいくと「あほな女」には自分に対して過大評価する姿勢は少ないように思う。
もしそういう女がいれば、それをわたしは「小賢しい女」と呼ぶ。
というわけで「あほな男」と「小賢しい女」よく似合う。(同じジャンルだからね)
さて,件の若者と出会った飲み屋の近くには「Ozeki」というスーパーがあるのだが、このスーパーのレジにはなかなか魅力的な若い娘がいる。
この場合「魅力的」は、はなはだ「けなげ」(子どもや弱いものが一生懸命に何かをしているときの様)に近い。
この「けなげ」のニュアンスも「あほな」には入っている。
う~ン、ここまでくると 、わたしの使う「あほな」は魔法の壷のようなもので、限りなくいろいろな意味合いが入っているようで困ってしまう。
「あほな」というのは,中身の入っていない身体や頭をもっていて,しかも何かをそのなかに取り入れるのにやぶさかではない、そんな感じに思えてくる。
ウン、まことにもっていい女ではないか.
というわけで「あほな女」にはもてるということはとんでもない賛辞だったことになる。
何しろ,わたしのお気に入りの若いレジ係の娘に私は声をかけるすべがないからだ。
声をかければ,間違いなく変質者と思われるであろう。
おっさんが変質者と思われずに声をかけるには、変質者ではない証明が必要だ。
その証明を手に入れられれば、私も「あほな女」とつきあえる幸運に浴するのだが、こいつが大変なのだよ。
なるほど、「あほな女」とつきあえる道はかくのごとく遠く厳しいのか。
「あなたはあほな女には間違いなくもてるだろうな」
と若者に言ったが、後から思えば「あほな女」というのはなかなかに深いコトバであった。
若者に言った時点では、「あほな女=小賢しくない女」という感じで使っていたのだが、「あほな女」はそれほど単純な概念ではなさそうだ。
この場合,「あほな女]を一般的に概念規定するのは妥当ではなく、この女がいかに「あほな女」であり、あの女がいかに「あほな女」であるという道をたどりながら帰納的にある女のイメージが出てくればいいという話ではないかと思う。
ところで、当然のように「あほな男」はどうなのかという疑問は生じるが、こちらのほうは何の価値もない。(そう思っている)
この場合「あほな男」というのは自己認識能力のきわめて低い男で且つ自分をそこそこ過大評価している男を指す。(まったくもってオレではないか)
このタイプの男を、少なくともわたしは必要としない。(心配しなくていい、誰かがその男を必要とする可能性は十分にあり、世界人口のなかのたった一人である私があまりいらないと言っているだけのことだ)
この伝でいくと「あほな女」には自分に対して過大評価する姿勢は少ないように思う。
もしそういう女がいれば、それをわたしは「小賢しい女」と呼ぶ。
というわけで「あほな男」と「小賢しい女」よく似合う。(同じジャンルだからね)
さて,件の若者と出会った飲み屋の近くには「Ozeki」というスーパーがあるのだが、このスーパーのレジにはなかなか魅力的な若い娘がいる。
この場合「魅力的」は、はなはだ「けなげ」(子どもや弱いものが一生懸命に何かをしているときの様)に近い。
この「けなげ」のニュアンスも「あほな」には入っている。
う~ン、ここまでくると 、わたしの使う「あほな」は魔法の壷のようなもので、限りなくいろいろな意味合いが入っているようで困ってしまう。
「あほな」というのは,中身の入っていない身体や頭をもっていて,しかも何かをそのなかに取り入れるのにやぶさかではない、そんな感じに思えてくる。
ウン、まことにもっていい女ではないか.
というわけで「あほな女」にはもてるということはとんでもない賛辞だったことになる。
何しろ,わたしのお気に入りの若いレジ係の娘に私は声をかけるすべがないからだ。
声をかければ,間違いなく変質者と思われるであろう。
おっさんが変質者と思われずに声をかけるには、変質者ではない証明が必要だ。
その証明を手に入れられれば、私も「あほな女」とつきあえる幸運に浴するのだが、こいつが大変なのだよ。
なるほど、「あほな女」とつきあえる道はかくのごとく遠く厳しいのか。
ラベル: 日常 考察
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