見えては消え、消えては見え
何のかんのと思いをめぐらせていると、急に見え出してくることがあったり、ああ、あれは考えが浅かったと思うこともしきりなり。
このブログは書いた時点ではおそらくはこうだろうと思うことを定着させているものだから、時間を経て間違いや浅さに気づくこともままある。
それを一つひとつ取り上げて誠実に訂正を告知していないことをここに詫びておかなければならない。
第66期名人戦は森内名人の先勝で開幕した。
羽生の異常とも思える前のめりの8六飛車が今後の展開を匂わせた一局であった。
さておき
この一局を放映したNHKの在り様はやはり哀しいほどお粗末であった。
ただ、解説の藤井猛、木村一基、佐藤康光がプロの在り様を示してくれていたのはありがたかった。
問題は進行役のアナウンサーがどうでもいいことをよくしゃべるのだ。
ああいうものは(プロの対局姿)黙って映しておけばいいのだ。
と思っていたのだが、どうもこの考えはうわすべりのものだったらしい。
NHKは視聴者を慮ってくれていたのだ。
だから、親切にああだこうだとおしゃべりしてくれていたのだ。
「羽生の姿勢や顔から何が読み取れるか」などという愚問をよく佐藤康光に投げかけられるものだと思うが、あれも親切だったのだろう。
佐藤が「対局中相手を観察しているわけではありませんから」とにこやかに返したのは特記すべきことだ。
NHKだけでなくテレビというものは視聴率を気にするものでそのため多くの人が納得してくれる番組作りをする。
端的に言えば、テレビを見てくれるであろう人に媚びる。
「テレビを見てくれるであろう人」とはだれか。
それは、メディアリテラシーの限りなくゼロに近い人たちだ。
テレビが対象としているのは、右も左もわからない人と考えればいい。
そういう人たちにわかりやすい番組を作る。(もちろん、例外は大いにありますから、あれはどうだ、これはどうだと疑問をおもちにならないように。あなたの評価した番組は立派な番組だと思います)
久本雅美は馬鹿だからガハハと笑い、手をたたいているわけではない。
そうすることで、彼女が面白がっていることを視聴者にわからせてくれているのだ、おやさしいことに。
ただこれは、一般的な番組には通じるが、第66期名人戦を視聴する人間は一般的な人間ではないところに瑕疵が生じる。
それでもここまで考えてみると、将棋に対してある種特別な思い入れのある人間を子ども扱いするのはやはり解せないものの、子ども扱いしてしまう理由もわからないわけではない。
かくのごとき視聴者のイメージしか彼らにはないのだから。(なくなりつつあるのだから)
「あの空をおぼえている」という映画を昨日見た。
驚くべきことにこの映画もまた、観客を子ども扱いしていた。
そして、それがまんざら間違いではなかったことには、あちこちですすり泣きが聞こえてきたことでわかった。
これらのこと(受け取り手を子ども扱いすること)が、平和な日本がもたらしたことだとはいえ(戦場では子どもでさえ子どものままではいられない)、それがとても幸せな土壌に乗っかってのことだとはいえ、世も末に近いのは疑いようはない。
お互い、志高い作品を仕上げていこうではないか。
そういう作品が必要とされる時代はもうすでに始まっているような気がする。
ラベル: 作品
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