2008年4月10日木曜日

紫陽花の みどり、色恋う 春の雨

高田博厚氏の文章(高田博圧著作集)を読んでいて教えられることが多かった。

「ある青年に答えて」のなかで
「経験や年齢から語られた言葉が魂を慰め得ない時を、私も知っている。」
とあるが、青年ばかりではないかもしれない。

なるほど、ひとは「結論だけ」を欲しているとは限らない。
たとえ、その結論が至極穏当なものであったとしても、なんとも納得のできない、腑に落ちない一瞬がある。
乱暴に言えば、「結論」ではなく「結論に到る道筋であなたが見たもの聞いたもの嗅いだもの」を知りたい欲求があり、それに触れてはいない答に、それがどのように正しくあったとしても肯けぬ自分を感じることがあるのだ。

そういうことをもう一度思い出させてくれる文章が高田氏の中にある。
また、あるところころではロマン・ロランやガンジーとスイスで過ごした一週間の後、パリへ戻った話を書いている。
そのとき、かれは行く先のない互いへの愛情を持ちあう女の元へ戻るのだが、久しぶりの(そして以前とは違う)彼女との朝餉が、彼ら(ロランやガンジー)と過ごした一週間と同じ重さで自分の中にあることをしみじみと回想している。

手探りで生きてきたものが触れた一瞬であったのだろう。

高田博厚氏を私に教えた人に深く感謝する。

春は三日に一度雨が降るというが、今も庭先には小粒の雨が浮かんでいる。
幸せになってほしいものだ。

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