2008年4月7日月曜日

男はみんな「すけべ」である


「男はみんな『すけべ』である」あるいは「女もみんな『すけべ』である」
こういったコトバを聞くと頭が痛くなる。

「もう少し年を取ればわかるよ」
「社会は甘かないよ」
「いやなら出ておいき」

似たような匂いがする。
あまり考えてはいないのだ、自分の言ったことについて。

ご多分にもれずにわたしもまた「すけべ」である。
しかしねえ、これだけははっきり言っておくが、「男はみんな『すけべ』である」あるいは「女もみんな『すけべ』である」と無批判にしゃべることのできるお前の「すけべ」とは違う。

問題は、どう「すけべ」かなのだ。

「すけべ」が直截的過ぎれば「ある性的な情愛」とでも言い換えてみようか。
問題とするのはおれの「すけべさ」がどうあるかでああって、「すけべ」とひと括りしたところで何も出てきやしない。

「男はみんな『すけべ』である」あるいは「女もみんな『すけべ』である」

は、何も言っていないのと同じほど「ぼんやりとした物言い」なのだ。
何ものかを考えている人間はそんな言い方をするはずはない。

「私の祖国は世界です」(玄順恵著)には小田実の情愛が垣間見られる。
もちろんこの本の本意はそんなところにはないのだからうがった読み方である。
しかし、読者にはそんな読み方も許されている。(書き手はいつもせつないのだ)

小田氏と玄氏もまた「すけべ」であったろう。
しかし、彼らの情愛はこんなにはるか遠くまで彼らを運んだ。(それがよかったにしろ悪かったにしろ)
あなたの「ある性的な情愛」はあなたたちをどこまで運んでくれるのだろうか。

人は沖縄に行くことはできる。
さて、それからだ。

あなたの問題はそんなふうにあなたの周りにごろんと転がっている。

ぼんやりしたコトバを捨て去ることはときにそのコトバの使い手に勇気を要求する。

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