見えないをあきらめない
ふとつけたテレビに京都に住む中途失明者、松永信也さん(51歳)が映っていた。
彼の語るコトバはわかりやすく深い。
当事者ならではの語り方をする。
彼は子どもたちや社会人に「見えない」とはどういうことかを伝える活動をしているが、その対象のなかにはわたしもいる。
わたしは、花粉症とは関係がないので、「花粉症のひと」に対して根性なしじゃないかと思ったりする。
「花粉症」を身の内で知らない人間の対応とはそんなものである。
もちろん「花粉症、たいへんだねえ」と言ってもいいのだが、そう言ったとしても「根性なしじゃないか」とその意味内容はさほど変わらない。
コトバ面が違って見えるだけだ。
安直にコトバ面に反応してはいけない。
コトバに意味を込めない、重みをつけない人はたんとこの世におりますから。
同じように「うつ病のひと」に対してひどい物言いをする人は多いが、わたしはやさしい。
「うつ病」はわたしの身の内の病だからだ。
松永さんの前述の活動は「目の不自由な状態」をそれぞれの人の身の内にほんのわずかでも生み出させようとするものだ。
人というのは愚かなもので、その痛みを知らない人間は平気で他者に痛みを与える。
火を知らないものが、何の躊躇もなく炎の中に手を差し伸べることを考えてみればいい。
あなただって躊躇なくドライアイスを握りしめるのではないですか?
だから、痛み多き人ほど人にはやさしくなる道理がある。
痛み多き人は自分の味わった痛み以外の痛みに対する想像力をももっているからだ。
「やさしい人が好き」
というのは、なかなかに薄っぺらで残酷なコトバなのである。
さて、松永さんの活動をテレビで拝見して思い出したのだが、昔、ある評論家が「目が不自由なのはその人の個性だ(正確ではない。<目が不自由>は別の障害だったかもしれない)」としゃべっていて、なるほどとわたしは思ったのだが、それを友人に語ると、その友人は「それはやっぱり、困ることじゃないか」とゆっくりとわたしに諭したことがあった。
そのいまだに友人である男は、傍観者の立場が嫌いな男で「目が不自由なのはその人の個性だ」のなかに「傍観者」性が紛れ込んでいるのをいち早く察したのだろう。
確かに「目が不自由なのはその人の個性だ」は美しい認識だが、当事者として最初にそう思うことはないだろう。
松永さんはこう言った。
「目が見えないのはとても困ることだが、何もできないわけではない」
もう三十年もまえの友人とのやり取りが、松永さんの映像と重なり、静かにわたしのなかの腑に落ちていった。
松永さんは40歳で失明した後、視覚障害者の職業といえばマッサージしか選択肢がない現実に反発し、福祉機器の販売など、自分の手で収入の道を得ようと死に物狂いで闘った。
しかしすべてにうまくいかず挫折した。
いまは非常勤の仕事と障害者年金、それに妻のパート収入で生きている。
「ただ目が見えなくなっただけなのに、なぜ限られた生き方しか選べないのか」
そう考えて松永さんは活動している。
目が見えなくても当たり前に生きられる社会を築きたい、そう彼は思っている。
社会には壁がある。
そして「社会の壁」に挑む人間たちがいる。
「社会の壁」を崩すのは難しいが、まったく不可能というわけでもないだろう。
「へなちょこ同盟」を企図するわたしが、「ともに戦おう」とシュプレヒコールをそそのかすことはないが、それとは別に戦う視覚障害者の姿があることは知っておいていいはずだ。
スタイルは違っても、そのスタイルが「へなちょこスタイル」と呼ばれても、やはりわたしたちもまた意志をもって歩いていきたいものだ。
彼の語るコトバはわかりやすく深い。
当事者ならではの語り方をする。
彼は子どもたちや社会人に「見えない」とはどういうことかを伝える活動をしているが、その対象のなかにはわたしもいる。
わたしは、花粉症とは関係がないので、「花粉症のひと」に対して根性なしじゃないかと思ったりする。
「花粉症」を身の内で知らない人間の対応とはそんなものである。
もちろん「花粉症、たいへんだねえ」と言ってもいいのだが、そう言ったとしても「根性なしじゃないか」とその意味内容はさほど変わらない。
コトバ面が違って見えるだけだ。
安直にコトバ面に反応してはいけない。
コトバに意味を込めない、重みをつけない人はたんとこの世におりますから。
同じように「うつ病のひと」に対してひどい物言いをする人は多いが、わたしはやさしい。
「うつ病」はわたしの身の内の病だからだ。
松永さんの前述の活動は「目の不自由な状態」をそれぞれの人の身の内にほんのわずかでも生み出させようとするものだ。
人というのは愚かなもので、その痛みを知らない人間は平気で他者に痛みを与える。
火を知らないものが、何の躊躇もなく炎の中に手を差し伸べることを考えてみればいい。
あなただって躊躇なくドライアイスを握りしめるのではないですか?
だから、痛み多き人ほど人にはやさしくなる道理がある。
痛み多き人は自分の味わった痛み以外の痛みに対する想像力をももっているからだ。
「やさしい人が好き」
というのは、なかなかに薄っぺらで残酷なコトバなのである。
さて、松永さんの活動をテレビで拝見して思い出したのだが、昔、ある評論家が「目が不自由なのはその人の個性だ(正確ではない。<目が不自由>は別の障害だったかもしれない)」としゃべっていて、なるほどとわたしは思ったのだが、それを友人に語ると、その友人は「それはやっぱり、困ることじゃないか」とゆっくりとわたしに諭したことがあった。
そのいまだに友人である男は、傍観者の立場が嫌いな男で「目が不自由なのはその人の個性だ」のなかに「傍観者」性が紛れ込んでいるのをいち早く察したのだろう。
確かに「目が不自由なのはその人の個性だ」は美しい認識だが、当事者として最初にそう思うことはないだろう。
松永さんはこう言った。
「目が見えないのはとても困ることだが、何もできないわけではない」
もう三十年もまえの友人とのやり取りが、松永さんの映像と重なり、静かにわたしのなかの腑に落ちていった。
松永さんは40歳で失明した後、視覚障害者の職業といえばマッサージしか選択肢がない現実に反発し、福祉機器の販売など、自分の手で収入の道を得ようと死に物狂いで闘った。
しかしすべてにうまくいかず挫折した。
いまは非常勤の仕事と障害者年金、それに妻のパート収入で生きている。
「ただ目が見えなくなっただけなのに、なぜ限られた生き方しか選べないのか」
そう考えて松永さんは活動している。
目が見えなくても当たり前に生きられる社会を築きたい、そう彼は思っている。
社会には壁がある。
そして「社会の壁」に挑む人間たちがいる。
「社会の壁」を崩すのは難しいが、まったく不可能というわけでもないだろう。
「へなちょこ同盟」を企図するわたしが、「ともに戦おう」とシュプレヒコールをそそのかすことはないが、それとは別に戦う視覚障害者の姿があることは知っておいていいはずだ。
スタイルは違っても、そのスタイルが「へなちょこスタイル」と呼ばれても、やはりわたしたちもまた意志をもって歩いていきたいものだ。
ラベル: 社会
2 件のコメント:
とんぼ丸様
はじめまして、じょうたと申します。
とんぼ丸さんが書かれている、
松永信也氏の事について、
お知らせさせて頂きます。
『「見えない」世界で生きること』
著者/訳者名 松永信也/著
出版社名 角川学芸出版
(ISBN:978-4-04-621175-0)
から出ています。
宜しければ、お読み下さい。
追伸です。
松永さんの本の詳細
URL貼り付けておきます。
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=32054808
是非、是非お読み下さい。
どうもありがとうございました。
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