2008年3月26日水曜日

色川孝子

25日は「知るを楽しむ・色川武大」の最終回。
色川孝子の登場と相成った。
最終回の柳美里はインタビュアーとして終始していて、さすが役どころをよくご存知でした。
彼女に対して過日ブログできついことを書いたのですが、批判めいたその文章に少しつけ加えて、孝子さんの話の一部を取り上げてみたい。

わたしはずいぶん高いことを柳さんに要求していたと思う。
それは、わたしが勝手にそうしたのではなく、彼女もまたそうしようとしていたからだと思う。(失敗して墜落してしまっていたのだが、なんだか自分が落ちてしまったことに気づいていないようだった、そのあたりの真摯さはおそらく書き手である彼女の真骨頂なのかもしれない。よくはわからないが)

わたしの要求、彼女がしようとしているとわたしが見て取ったことは
「色川武大なる人物の混沌とした具体の渦の中からある抽象的なもの、それを概念といってしまってもよいのだが、そいつを取り出すこと。そして、それからが実にもって重要なのだが、取り出した概念を視聴者に(わかる視聴者に)語ることでさらに生き生きと色川武大をその場に(彼女の語る中に)立ち現われさせてしまう」といった大胆不敵な試みだった。

彼女は、ある抽象的なものを取り出したのだが、その概念はコトバでしかなく肉体(身体性)をもっていなかった。
薄っぺらであるというコトバの特性を十分にわからせる空疎なものでしかなかった。
しかし、その瑕疵を責めてはならないだろう。
彼女は具体を扱う小説家で小説のなかになにものかを密かに埋めることはできても、取り出すことに長けてはいない。

「思考は概念を手中にすることでその脚力を一挙に加速する」

これは、ある評論家に対するほめコトバであるが、抽象することが「単純化」や「類型化」とはまったく違う地平に立っていることがわかる。

というわけで、彼女は文字通り蟷螂の斧を振るったわけで、場違いな場所にあっても真正面に向かっていくけなげさを見せた、そう見るのが一番妥当だと思う。
つまり、批判するのは大人気なかったと深く反省しております。

さて、あまり長くなるといけないので、孝子さんのコトバにわたしのコトバはあまりつけ加えない。
彼女は色川武大と自分との関係を振り返りながら以下のように話した。(ほぼ以下のように話した)

「(ふたりの関係のなかで)いろんなことがあっても、人は許さなければいけない。(だって)許さなければ一緒に生きていけない(でしょ)」

色川武大と同じ空間に長くいた孝子さんのいま思うことだろう。

人は許さなければ、だれかと一緒にい続けることはできない。
ひっくりかえせば、許すことができないのなら、それはすでに別れたほうがいい関係なのだろう。

大事なことがひとつ残ったが、
「許す」ということがどういうことかは、個々人で考えることにするとしましょう。

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