猫が娘か、娘が猫か
知らないことに毎日のようにぶつかって無知を思い知るわたしの生活なのだが、無知でなければ知ることはできないのだから「知らないでいる自分」をそうそう嘆いてわけでもない。
この前書いた「知るを楽しむ」という番組タイトル名も、裏返せば知らないから「知るを楽しむ」ことができるわけで「無知を楽しむ」といってもいいのだろう。(ほんとうか?)
さっき、魚屋に行ったら「メジ(長崎産天然もの)」とあったが、マグロの養殖がそれほど出回っているのかと驚いた。
ちなみに「メジ」というのはマグロ類の幼魚に対して使われる呼称で、少しプロっぽく言えば、クロマグロは「本めじ」、キハダは「黄めじ」となる。
これがわたしの育った三重になると「メジ」ではなく「ヨコワ」となる。
(詳しくは知らないが、つけ加えておけば「メジ」は「目近」、つまり吻(口)からすぐ後に目があるというので「メジ」と呼ぶようになってきたらしい)
で、「メジ」が今回の本題かというと話はそれではない。(思いつきを書いているとあっちこっち行って実にせわしない。申し訳ないことです)
少し前に紹介した南木佳士の「トラや」であるが、それが内田百閒「ノラや」を下敷きにしていることを最近知った。
わたしは愛猫家ではないのでその筋ではあまりにも有名な「ノラや」の存在を知らなかったのだ。
けれどもそのおかげで、いまごろになって「ノラや」をしみじみと楽しめることができる。
ところでわたしの住んでいる近くに土日だけ開かれる八百屋さんがあって、そこはたいていご主人と若い娘さんでやっているのだが、その娘さんをわたしは贔屓している。
とくにどうのこうのという娘ではないのだが、その愛嬌は飛びぬけていて、おばさん連中はいつも親しげに娘に話しかけて会話はゴムマリのようにはずんでいる。
会話がゴムマリか娘がゴムマリかよくわからない。
その娘を見るたびに娘も親しげにわたしを見るのだが、そのときの気分がなんともいえなくてその気分をしばらく内に抱えていたのだが、ようやくどういう気分かわかってきた。
わたしは猫をとくに愛する人間ではないが、この娘が猫であるならばわたしのそばに置いていただろうことに思いが到った。(こう書くと娘か猫のどちらかに怒られてしまいそうだが、思い至ったことは多少の障壁があっても書かずばなるまい)
猫になった娘は、あるいは娘であった猫は、はじめわたしにまとわりつくのだろう。
そういうことは今までにもあった。
多くは子どもだが、あやつらはわたしの弱気を見抜くのだ。
見抜いて底抜けに甘えてくる。
甘えられたこちらはやりようがない。
これが、子どもに混じって「アカサギ」に近い娘だと黙ってだまされたふりをするしかない。
まあ、めちゃくちゃな話だが、見抜かれたわたしの負けということだ。
さて猫になった娘は、ひがなわたしにじゃれついてくるが、終いには寄りつかなくなり、去って行ってしまうだろう。
しかし、これがほんとうに去って行ったかと思うと、さにあらず、わたしの気持ちが落ちていくときを見計らうように突如そばにぺたりと座ったりする。
ああ、この猫が…
そんなふうに知らぬうちに助けられたりしながら生きていければと娘を見ながら思いをふわりとたゆたわせていると、この思い、もともとは「トラや」や「ノラや」のなかで教えられ身の内に入ってきた思いだと気がつくのである。
そんなことを思いながら娘を猫に変えるすべもない男は、娘から買った花豆を煮たのを片手にとぼとぼと帰っていくのでした。
ラベル: 日常
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