コトバの重み
【シリコンバレー17日時事】
複数の欧米メディアによると、中国政府は17日までに、米動画投稿サイト「ユーチューブ」を中国内で利用できないよう、インターネット経由での接続を遮断する措置を講じた。チベット暴動の映像が投稿、閲覧されるのを防ぐ情報統制の狙いがあるようだ。
ユーチューブの親会社である米ネット大手グーグルやヤフーが運営する各ニュースサイトも閲覧が難しい状況。グーグルのサイトではネット検閲も実施され、検索キーワードに「チベット」「ダライ・ラマ」と入力すると結果が表示されないという。
テレビのニュースや時事問題にも商品価値はもちろんあり、その社会に評価された商品価値をもつ番組は売れるわけだから(視聴率が高い)、見えにくくされてはいるが、一見、客観性を保っているように見えるテレビ画面の裏で利害がぶつかっているのは言うまでもない。
また、その影響力を悪用しようとする人たちがいるのも、これもまた言うまでもない。
最初に掲げたニュースによる中国だけではなく、この日本でも同じようなことが程度の差こそあれ行われている。
キャスターも所詮商品にすぎず、それに逆らうキャスターは干される羽目に陥る。
にもかかわらず、戦う報道者に深く敬意を表する。
さて、このところ何人かにはがきを出しているのだが、その返事は、ほとんどメールで来る。
ここまで、メールの位置は上がっているのかと自分の不覚を認識した。
このブログでは、語っていないかと思うが、コトバなどというものはもともととても軽いもので、たとえば日本語としての文法を守って正確な日本語を語ったところで相手に深く伝わるかどうかはわからない。
「つきあってください」は、正確な日本語だが、そう言ったところで、あるいはそう書いたところで、相手が反応するかどうかとは別のことだ。
相手を動かすほどの重さは、単なるコトバにはない。
しかしながら、相手を動かすコトバがわれわれの前に現われることはある。
それは、われわれの現実生活のある場面で発せられた言葉であり、小説のあるシーンで書き起こされたコトバであり、あなたの好きなあの歌のメローディーに乗って届くコトバだ。
ハガキに綴られたコトバはメールのコトバより重い。
すでにその間違いに気づかされてしまったわたしですが、そのように長く思っていました。
ハガキに書くという行為のほうが、キーボードをたたく行為よりもコトバに重みをつけるのだと。
いまでも受信者であるわたしは、ハガキを重んじる感覚がある。
メールにおける利便性とむやみにコトバを重くしない特性はこの時代にすぐれて生かされており、すでにそれにとやかくの感慨を持つわたしは通り過ぎた街角に佇んでいる浮浪者のごときものなのだろう。
おそらくコトバを重くする作業自体、いまや必要とされていないのかもしれない。
それは、テレビドラマにおける久世光彦が必要とされなくなってしまったように。(テレビドラマもまた、重いものは厭われ、環境音楽のごときドラマ、滞ることなくそこに流れていることを第一とするドラマが主流を占めるようになっていく)
立ち止まらせ、自分に問い直す契機となるものは、すべて忌み嫌われる時代だ。
時代は自己肯定に走り、自己否定を遠ざけようとする。
自己肯定の時代は、そのまま受け入れる時代で、そこで生きる人々はこの社会も政治もそのまま受け入れるようになっていく。
その音頭とりが、ニュースであり、ワイドショーであり、報道番組だ。
しかし、わたしの本心を言えば身の内に自己否定を含まぬ人間祖の底は浅く、社会が吹かせる風にふわふわとたなびいている。
すぐれた表現者が自己否定を身の内にもっているのはこの極地で、同時にかれらは虚実皮膜の合わせ目に生き、生死の合わせ目も見てしまっている。
メールに肩代わりさせることでなくなっていくものを見てみようと、本日はこういったことをぼんやりと考え、独り言ちてみました。
そういえば、わたしによくハガキをくれる編集者のIさんは、流されることを極度に嫌うところがあり、「書」を嗜み、コトバの重みに向き合うことをたくまずして行っている。
こういう人がいることをわたしの生きる力にしていきたい。
複数の欧米メディアによると、中国政府は17日までに、米動画投稿サイト「ユーチューブ」を中国内で利用できないよう、インターネット経由での接続を遮断する措置を講じた。チベット暴動の映像が投稿、閲覧されるのを防ぐ情報統制の狙いがあるようだ。
ユーチューブの親会社である米ネット大手グーグルやヤフーが運営する各ニュースサイトも閲覧が難しい状況。グーグルのサイトではネット検閲も実施され、検索キーワードに「チベット」「ダライ・ラマ」と入力すると結果が表示されないという。
テレビのニュースや時事問題にも商品価値はもちろんあり、その社会に評価された商品価値をもつ番組は売れるわけだから(視聴率が高い)、見えにくくされてはいるが、一見、客観性を保っているように見えるテレビ画面の裏で利害がぶつかっているのは言うまでもない。
また、その影響力を悪用しようとする人たちがいるのも、これもまた言うまでもない。
最初に掲げたニュースによる中国だけではなく、この日本でも同じようなことが程度の差こそあれ行われている。
キャスターも所詮商品にすぎず、それに逆らうキャスターは干される羽目に陥る。
にもかかわらず、戦う報道者に深く敬意を表する。
さて、このところ何人かにはがきを出しているのだが、その返事は、ほとんどメールで来る。
ここまで、メールの位置は上がっているのかと自分の不覚を認識した。
このブログでは、語っていないかと思うが、コトバなどというものはもともととても軽いもので、たとえば日本語としての文法を守って正確な日本語を語ったところで相手に深く伝わるかどうかはわからない。
「つきあってください」は、正確な日本語だが、そう言ったところで、あるいはそう書いたところで、相手が反応するかどうかとは別のことだ。
相手を動かすほどの重さは、単なるコトバにはない。
しかしながら、相手を動かすコトバがわれわれの前に現われることはある。
それは、われわれの現実生活のある場面で発せられた言葉であり、小説のあるシーンで書き起こされたコトバであり、あなたの好きなあの歌のメローディーに乗って届くコトバだ。
ハガキに綴られたコトバはメールのコトバより重い。
すでにその間違いに気づかされてしまったわたしですが、そのように長く思っていました。
ハガキに書くという行為のほうが、キーボードをたたく行為よりもコトバに重みをつけるのだと。
いまでも受信者であるわたしは、ハガキを重んじる感覚がある。
メールにおける利便性とむやみにコトバを重くしない特性はこの時代にすぐれて生かされており、すでにそれにとやかくの感慨を持つわたしは通り過ぎた街角に佇んでいる浮浪者のごときものなのだろう。
おそらくコトバを重くする作業自体、いまや必要とされていないのかもしれない。
それは、テレビドラマにおける久世光彦が必要とされなくなってしまったように。(テレビドラマもまた、重いものは厭われ、環境音楽のごときドラマ、滞ることなくそこに流れていることを第一とするドラマが主流を占めるようになっていく)
立ち止まらせ、自分に問い直す契機となるものは、すべて忌み嫌われる時代だ。
時代は自己肯定に走り、自己否定を遠ざけようとする。
自己肯定の時代は、そのまま受け入れる時代で、そこで生きる人々はこの社会も政治もそのまま受け入れるようになっていく。
その音頭とりが、ニュースであり、ワイドショーであり、報道番組だ。
しかし、わたしの本心を言えば身の内に自己否定を含まぬ人間祖の底は浅く、社会が吹かせる風にふわふわとたなびいている。
すぐれた表現者が自己否定を身の内にもっているのはこの極地で、同時にかれらは虚実皮膜の合わせ目に生き、生死の合わせ目も見てしまっている。
メールに肩代わりさせることでなくなっていくものを見てみようと、本日はこういったことをぼんやりと考え、独り言ちてみました。
そういえば、わたしによくハガキをくれる編集者のIさんは、流されることを極度に嫌うところがあり、「書」を嗜み、コトバの重みに向き合うことをたくまずして行っている。
こういう人がいることをわたしの生きる力にしていきたい。
ラベル: 日常 考察
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