2008年3月18日火曜日

壊れ物としての人間


久しぶりにテレビで上野千鶴子を見かけたが、ずいぶんやさしげに見えた。
それでも懐に刃物を帯びているのは十分にわかったが、それは見方によっては柔らかな知性にも見えるのだった。
評判になっている「おひとりさまの老後」につて彼女はインタビューに答えていたが、上野くらいのインタビュイーになるとインタビューアーの未熟さがあからさまに露呈してしまっていた。
その露呈してしまうインタビュアーのほころびを上野が、かばうシーンが印象的だった。

むかしなら、フン、と鼻で笑い、場合によってはその女性を(インタビュアーは女性だった)壊してしまっていただろう。
ひとの壊れ方はいろいろあるのでここで詳しく書くことは難しいが、いい小説の中にはその壊れ方に執着して追いかけていく作品がいくつかある。
それらは、壊れた人間が壊れたまま終るものと壊れた人間が何とかなっていく、あるいは何とかなっていく予感を秘めさせるものとに分かれるのだが、ここではその寄り道(小説についての話)にはよらず上野さんの話に戻していくことにしよう。

そのときの上野さんの話によると「ようやく、わたしは人間が壊れ物だということがわかった」ということになる。(これは「おひとりさまの老後」にもある)
わかるまでにずいぶん人を壊してきたと過去を振り返ったりもする。

「人間は壊れ物だ」

という認識は大切で、このテーゼはひっくり返すと、知らぬ間にわたしたちはひとを壊すことがある、壊さないまでも十分に深くひとを傷つけることがある、となる。
このことはその人間が気づかなければ、一生繰り返し行われ続けていく。
アメリカが非戦闘員たる市民を殺し続けるように。

人を傷つけることに鈍感な人間は、アメリカの行為に対しても鈍感だ。
おそらく今回のチベットの事件もポテトチップスとビール片手にテレビで眺めていることだろう。

わたしの主張は、だから立ち上がれという主張ではない。
アメリカが東京大空襲を何かの映画でも眺めるように見ていたとき、地上の紅蓮の炎の中、難死していく無数の名もなき日本市民がいたことを知っておこうといっている。
わたしがテレビ画像を通して眺めるチベットの暴動のなかに、チベットを思い死んでいく人がいる、そういうことを思ってしまう人間でありたいと願っている。

その後になにをするかはあなたのそしてわたしの自由だ。

無知であることは、ある場合、とても恥ずかしいことだ。
そういう自覚をわたしはわたし自身に求める。

「ひとが壊れ物」であると知った上野千鶴子もまた多くのことは他者に求めないのではないのだろうか。
ただし、自分にかかわってくれば叩き落しにかかるだろう、その腹に飲んだギラリと光る刃物で。

「ひとは壊れ物だ」

だから自分を大事にするときには、大事にすことに賭けたほうがいい。
自分を奮い立たせるのには多くの条件がいる。
その一つひとつの条件を克服し、結果的に立ち上がれるその日を待つことの時間を
わたしは「日常」と呼んでいる。

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