シアナマイド液
今日は、夕方から若い友人と青山で会うので、そのことにふと思いをめぐらせていたら、急に酒を飲もうかという気になった。
ふいにである。
そして強く。
かように我が精神は酒に対して無防備で弱い瞬間を迎える。
なるほど、なるほど、と自分のなかの酒への思いとしばらく向き合ってみる。
その後に「シアナマイド液」を飲み干した。
「シアナマイド液」、いわゆる断酒剤だ。
酒がのみたい夜
酒がのみたい夜は
酒だけではない
未来へも罪障へも
口をつけたいのだ
日のあけくれへ
うずくまる腰や
夕暮れとともにしずむ肩
酒がのみたいやつを
しっかりと砲座に据え
行動をその片側へ
たきぎのように一挙に積みあげる
夜がこないと
いうことの意味だ
酒がのみたい夜はそれだけでも
時刻は巨きな
枡のようだ
血の出るほど打たれた頬が
そこでも ここでも
まだほてっているのに
林立するうなじばかりが
まっさおな夜明けを
まちのぞむのだ
酒が飲みたい夜は
青銅の指がたまねぎを剥き
着物のように着る夜も
ぬぐ夜も
工兵のようにふしあわせに
真夜中の大地を掘りかえして
夜あけは だれの
ぶどうのひとふさだ
(石原吉郎 詩集『サンチョパンサの帰郷』1963)
石原さんの詩はふと思いついて挿入しただけで、このブログにおいての意味はあまりないので、単独で眺めてください。(わたしが入れたかったから入れただけなのです。)
さて、そのように酒に対して無力なわたしだが、だからといって自己卑下ばかりはしていられない。
逆も同じことで、自分を好きすぎてしまっていても困ることになる。
生きていく難しさはこのあたりの「さじ加減」にあって、同時にこの「さじ加減」がわれわれの個性となる。
だから、間違っても「さじ加減」を誰かほかの人や機構や団体や組織に譲り渡してはならない。
自己中心的は当たり前のことで、そのことを知ったうえでさてどうするかというのが、われわれの気にするところだ。
ラルフ・バートン・ペリーは「イーゴ・セントリック・プレディカメント」をそういう意味で扱っている。
われわれは、否応なく自己を中心としてものを見るのだが、われわれにはほかにものを見る場がないのも確かなことなのだ。
繰り返すが、さてどうするかだ。
問題を小さくして、自分が酒に無力だと認識をしたわたしは「シアナマイド液」でこの問題は処理した。
しかし、それは根本的な解決ではなく、わたしは何の解決もなく、そのまま、また生きていく。
いいことも悪いことも含めて。
うん、まあ、そういうことだな。
ラベル: 日常 考察
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