2008年3月15日土曜日

田村隆一あるいは鶴見俊輔のこと


田村さんのエッセイを読んでいると書かれてすでに三十年以上経っているにもかかわらず、やはりこのエッセイは読んでおくエッセイだったと改めて感じ入るのだった。

たとえば、誰かの何かの本を読んだとして、それはもう間違いなく読んだことなのだが、それでもあなたにとってのその本とほかのだれか(もちろんその人もあなたと同じ本を読んだのだが)にとってのその本の相貌は違ってくる。

だから「インド酔夢行」を読んでいるとそこには1973年10月4日~17日、1975年3月13日~28日という三十年以上前の田村氏が見たインド、ネパールの様子が描かれているのだが、では、その時代にタイムスリップして「ジャンパー」のように田村氏と同じ場所に行って同じものを見ようとしてもそこには彼によって書かれたものがあるかどうかはわからない。
もっとしっかり書けば、あなたによって見ることができるかどうかは保証の限りではない。

田村氏の見たインドは田村氏の中にしかない。
所詮あなたはあなたの目を通してしかインドを見ることはできない。

といわけで田村氏の見たインドがかろうじて垣間見れるのは「インド酔夢行」のなかとなるわけだ。
そういう意味で、こういった本は古ぼけたものにはならない。
インドがいくら変わろうともそのことは問題ではない。

おそらく、「インド酔夢行」にはインドを書くことによってわたしたちに示した田村氏が存在しているだけだからだ。
そのように本は書かれなければならない。(ほんとうのことを言えばそうだが、やみくもに誰にも彼にもこんなことを願ってはいけない。その人の技量というものがあるのだし、その人の生きかたというものもある)
また、そのように書かれた本を見抜き大切にしたいものだ。

さて、かつてわたしは鶴見俊輔の入門書として上原隆「『普通の人』の哲学」を紹介したが、(いや、このブログではなかったかもしれない。ボケもここまで進めば『もうろくの春』か)いま読んでいる『みんなで考えよう①~③』(晶文社)の鶴見さんと中学生たちの寺子屋シリーズがさらにいいのかもしれない。

とにかく鶴見俊輔という人はわかりやすくわかりやすく深いことに対してものを言う人だから、しっかりついていけば眺望開ける高台に行き着くことができる。
そこまで連れて行ってもらえば、後は自分で考え始めればいい。
そうすれば、見えなかったものが見えるようになると思う。(もちろん、わたしも含めて)

目の前に見えないというだけで、そこにそれがないと思うな。

見えるようになる時が来る可能性もある。

何かを身の内に抱えるという作業は見えない明日へ向かっての自分自身へのエールだ。
いいものに触れながら、生きていこうではないですか。

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