梅の花
春の夜の闇はあやなし梅の花 色こそ見えね香やは隠るる
「古今集」にある凡河内躬恒の歌である。
同じく躬恒だが「拾遺集」には以下のように詠んだ。
吹く風をなにいとひけむ 梅の花散りくる時ぞ香はまさりける
また、「古今集」には詠み人知らずで
色よりも香こそあはれと思ほゆれ 誰が袖触れしやどの梅ぞも
という歌も残っている。
どれもこれも梅の「花」ではなく「香」を詠っているが、確かに梅の香を詠んだ古歌は多い。
姿よりも薫り、この美学、もはやあまり残ってはおるまいが、自分の心の奥底にそれがわずかながら仄見える感じがある。
視覚に律しきれぬ世界がわがうちにもあることを頼もしく思う反面そのか弱さに嘆声を洩らしそうにもなる。
上代文学、たとえば万葉集あたりでは「花」といえば「梅」だった。
それが平安のころから「梅」は「桜」に取って代わられます。
そのころに、「花」といえば「桜」、「花の香」といえば「梅」となったようで、自然、中古の歌で「梅」を取り扱うときは「香」に主眼が置かれていったのでした。(「梅」が「桜」に取って代わられたのは文学的には平安、生活としては江戸あたりでしょうか)
さらに時代が過ぎると「桜の姿」に「梅の香」が押されるようにもなってきました。
それは、「梅」が中国から持ち帰り広まったという経歴もかかわるのでしょうが、とにかく「姿」が「香」を凌駕していく傾向は、わたしの好みとしてはあまりうれしくないことです。(比喩的にも)
梅に関しては「探梅」・「覚梅」・「送梅」という言葉があります。
「咲いた梅を探し、咲いた梅を愛で、散りゆく梅を見送る」といったところでしょうか。
いまやすでに「覚梅」のころ。
夜の梅を楽しみに行くというのも悪かありませんな。
「花の香」を楽しむわけです。
誰かと行きたいものですが、その人の薫りだけだとしてもかまわないような気分です。
ラベル: 日常
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