2008年3月22日土曜日

日記とブログ

「日記とブログ」
さほど差のないもののように思えるし、それに読み手の気持ちは、読み手として登場するわたしの感覚でしかわからないので、いたずらな寸評になってしまうかもしれないが、お許し願いたい。

上質な日記というものは、具体的な日常がおもに書かれており、そこにわずかな書き手の心がのぞくといったところに相場は決まっていて、それは「病床六尺」「断腸亭日乗」だとかに始まりいくつか挙げることが可能だろう。

日記には精神的な彷徨はあまり書かないことになっている。
もちろん、精神的な彷徨を書いて読みものとして良質なものは残っている。
が、日記といえば読者は自分自身と決まっており、(それに多少色気を出してしまうのが職業作家の常だが)この読者は自分自身だという部分だけを強く照射するならば、読者が読み返して腑に落ちるのは日常の具体的なさまざまな記述となる。(内面的な描写は本人にとってはたとえ時が過ぎていても生々しすぎるのである)

たとえば、その日に食べた漬物であるとか、庭先にアジサイが咲いていたとか、昨夜はよく眠れたとか、珍しくあいつがたずねてきたとか…一見愚にもつかないように思えるのだが、その実、後から読み返してみると、まざまざとゆきさりし日が思い出され、感慨深いものである。

おわかりかと思うが、読者である自分自身の内にあるそのころ思いめぐらせた記憶と日記が相まっての読み物になっているところにその秘密はある。

一方ブログは日々の記録であっても読者は他者なので、書き手の日常的記録はそのままどこかしらにある日常にしかすぎない。
にもかかわらず、単なる日常を書いているブログを多くの人が読むということはどういうことなのかと不思議にも思うが、いろいろの理由があるのだろう。

ひとつはブログの主催者への個人的な興味から。
ひとつはある種の共同体の感覚から。(ああ、ここにもわたしと同じ時間を生きている人がいるといったもので、決して強い意味の共同体ではなく――ジャン=リュック・ナンシーを参考にされればいい)

そして、そうあっては少し恐ろしくもあるのですが、
すでに読者の中に日常が消失してしまっている場合。(だから他者の日常が郷愁を誘う)

「日常の消失」とはいかなることか。

残念ながら、これはひとつのテーマとなることで、このブログでは手に余る。
いつものことではあるが、思わせぶりを深くお詫びします。

ごめんネ。

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