依存する人たち
「依存する人たち」には、わたしも含まれている。
(こういうところをなぜわざわざ押さえるかというと「自分を含む集合」か「自分を含まない集合」かの区別は何かを考えるときに大きなポイントになるからです。
と、えらそうに書いておりますが、これは論理学の基本の基本です。
基本の基本ではありますが、たとえば校則は「教師を含まない集合」に対してのものですが、そのことを意識している教師は驚くほど少ない。
自分には影響のない校則を生徒に強いるという行為がどういう意味を持つのか考えたことがない。
念のために書いておきますが、これは個別の校則、教師に対する批判ではなく、校則というものがもつ特殊性を語っている話で「メタ校則」といった領域にあります。ご注意ください。
もちろん、こんなことはそこらあたりにゴロンゴロンころがっており、たとえ舗装することで隠されていようとも、わたしたちの周りにわたしたちを縛る「そいつらが含まれていない集合」という形の決め事は驚くほど数多くあるのです)
先日、わたしの大きく敬愛する主治医、若き心療内科の田中さんと面白いやり取りをした。
彼にとっては当たり前のことであったのだろうが、わたしは目の前が開けた。
そうか、わたしは、こんな突堤に立っていたのか。
こんなやり取りである。
「先生からもらっているあの睡眠薬ですが、中毒性が若干あるんじゃないんですか、あれを飲まないとだんだん眠られないような感じになってるんです」
「ないですよ」
「ない?」
「そう、中毒性はないです」
「そうですか」
「中毒性はないですが、依存性は生じますよ」
「人間はなんにでも依存するんです。山本さんはおそらく睡眠剤に依存し始めているのでしょう。同じように毎晩チョコレートを食べて眠る癖がつくとチョコレートに依存するようになる。ラーメンを食べて寝れば、ラーメン依存症。男がいなければ眠られないと…」
ま、田中さんは男が云々までは語らなかったが、そういうことである。
面白い話だと思った。
「睡眠薬に中毒性はないが、睡眠薬に依存してしまうことがある」
これはいくらでも広がる大きな話なのでそこそこで止めておくことにしますが、たとえばあなたなりわたしなりが慣れ親しんでいることが生活のなかにはある。
わたしなら、食事以外にもおやつのようにゴマを食べていてゴマがなくなると不安なので常時台所の水屋に何袋か放り込んである。
いわゆるところのゴマ依存症。
あなたにもそういう食べ物があるでしょう。
よく話題になるのは、マヨネーズや唐辛子。
自慢げに話す連中がいるが、なに、あれは依存症の一種に過ぎない。
何のことはない。
自分の考え、意見が何の吟味もなく正しいと思っている連中もいる。(「ドクサ」というタームを導入しておこうか)
こいつが手におえない。
私見ではあるが、長く無批判に自分の考えや意見を抱いているとその考えや意見に依存するようになる。
依存すると、やつらは、てこでもその考え意見を曲げない。
曲げなくても大丈夫な保障として彼らは数を頼みにする。
この数を頼みにした考えを世間では「常識」とか「社会通念」と言う。
たまたま正し(この場合「正しい」はそういう考えがこの世に存在してもあまりわれわれの邪魔にはならないというほどの意味)ければいいが、その考えで糾弾されるのはたまらない。
「みんながやっている」
「みんなそう考えている」
………
そういった依存症の人たち(この場合わたしはその集合に入っていない)の切り札は、数だからつい「みんな」「社会人」「世間の人」といった大きな集合を持ち出して、われわれ弱者(この集合にあなたが入っているかどうかは大きな問題だが、これは、あなたに下駄を預けるしかない)を責めてくる。
これは面倒だ。
ひとつだけ確かなことを述べておけば、かれらは依存症だから論破することはできない。
強い依存症であればあるほど眠る前に睡眠薬を飲むことは必然になってしまう、チョコレートを食べることは必然になってしまう、そして無批判に長くもって過ごしてきた彼らの考えは(実はその考えは彼らが深く真摯な思弁の底に見つけ出したものではないのだが)ア・プリオリなものになってしまっている。
そのア・プリオリなものはア・ポステリオリなものに取って代わられることはない。
誰かに与えられたものであっても無批判に後生大事に持っていればそうなってしまう。
「それでも地球は回っている」
と嘆いた科学者の気分も少しはわかるだろう。
あの科学者のような歴史上の出来事にはならないが、われわれも日々そのような状況に囲まれている。
私事だが、昨日、話したくない人と話さざるを得なくなってしまい、しばらく話したが、これにはまいった。
わたしの心の方々に傷跡が残った。
傷跡は、「重いうつ気質」と「うつ病」の境目に住まいするわたしをほんの少し「うつ病」に追いやった。
そのため、わたしは昨日今日としばらく飲まない「レキソタン」を嚥下にした。
わたしの場合はこれでいいが、食っていくために社会と接する機会が多くなるあなたは計算高く対抗手段をもたなければならない。
その対抗手段の一つに心を外界から遮断する、帳を下ろしてしまうやり方がある。
離人症にもつながる危険なやり方だが、有効であることもまた確かだ。
社会と接するときに自分自身であっては身がもたない。
たとえば、誰かほかの人間を演じてしまう意識が必要だろう。(role-playing)
そういったことを真剣に考え実践することで、自分を守りたまえ。
そうしていれば、ときに自分をある程度出してもいいかなと思える人と出会える。
その意味で仲間はとても大切だ。
それが異性であろうが同性であろうが、老若男女問わずだ。
わたしなどは、猫を飼おうと考えているぐらいだから、人間であることも仲間の条件からはずしている。
そうやって日々をゆっくり自分自身で、少しだけでも楽しみながら過ごしていけば、また会うときもある。
そのときは、
あなたとおいしい紅茶を飲もう。
極上のチーズケーキでもほうばりながらがいいかな。
(こういうところをなぜわざわざ押さえるかというと「自分を含む集合」か「自分を含まない集合」かの区別は何かを考えるときに大きなポイントになるからです。
と、えらそうに書いておりますが、これは論理学の基本の基本です。
基本の基本ではありますが、たとえば校則は「教師を含まない集合」に対してのものですが、そのことを意識している教師は驚くほど少ない。
自分には影響のない校則を生徒に強いるという行為がどういう意味を持つのか考えたことがない。
念のために書いておきますが、これは個別の校則、教師に対する批判ではなく、校則というものがもつ特殊性を語っている話で「メタ校則」といった領域にあります。ご注意ください。
もちろん、こんなことはそこらあたりにゴロンゴロンころがっており、たとえ舗装することで隠されていようとも、わたしたちの周りにわたしたちを縛る「そいつらが含まれていない集合」という形の決め事は驚くほど数多くあるのです)
先日、わたしの大きく敬愛する主治医、若き心療内科の田中さんと面白いやり取りをした。
彼にとっては当たり前のことであったのだろうが、わたしは目の前が開けた。
そうか、わたしは、こんな突堤に立っていたのか。
こんなやり取りである。
「先生からもらっているあの睡眠薬ですが、中毒性が若干あるんじゃないんですか、あれを飲まないとだんだん眠られないような感じになってるんです」
「ないですよ」
「ない?」
「そう、中毒性はないです」
「そうですか」
「中毒性はないですが、依存性は生じますよ」
「人間はなんにでも依存するんです。山本さんはおそらく睡眠剤に依存し始めているのでしょう。同じように毎晩チョコレートを食べて眠る癖がつくとチョコレートに依存するようになる。ラーメンを食べて寝れば、ラーメン依存症。男がいなければ眠られないと…」
ま、田中さんは男が云々までは語らなかったが、そういうことである。
面白い話だと思った。
「睡眠薬に中毒性はないが、睡眠薬に依存してしまうことがある」
これはいくらでも広がる大きな話なのでそこそこで止めておくことにしますが、たとえばあなたなりわたしなりが慣れ親しんでいることが生活のなかにはある。
わたしなら、食事以外にもおやつのようにゴマを食べていてゴマがなくなると不安なので常時台所の水屋に何袋か放り込んである。
いわゆるところのゴマ依存症。
あなたにもそういう食べ物があるでしょう。
よく話題になるのは、マヨネーズや唐辛子。
自慢げに話す連中がいるが、なに、あれは依存症の一種に過ぎない。
何のことはない。
自分の考え、意見が何の吟味もなく正しいと思っている連中もいる。(「ドクサ」というタームを導入しておこうか)
こいつが手におえない。
私見ではあるが、長く無批判に自分の考えや意見を抱いているとその考えや意見に依存するようになる。
依存すると、やつらは、てこでもその考え意見を曲げない。
曲げなくても大丈夫な保障として彼らは数を頼みにする。
この数を頼みにした考えを世間では「常識」とか「社会通念」と言う。
たまたま正し(この場合「正しい」はそういう考えがこの世に存在してもあまりわれわれの邪魔にはならないというほどの意味)ければいいが、その考えで糾弾されるのはたまらない。
「みんながやっている」
「みんなそう考えている」
………
そういった依存症の人たち(この場合わたしはその集合に入っていない)の切り札は、数だからつい「みんな」「社会人」「世間の人」といった大きな集合を持ち出して、われわれ弱者(この集合にあなたが入っているかどうかは大きな問題だが、これは、あなたに下駄を預けるしかない)を責めてくる。
これは面倒だ。
ひとつだけ確かなことを述べておけば、かれらは依存症だから論破することはできない。
強い依存症であればあるほど眠る前に睡眠薬を飲むことは必然になってしまう、チョコレートを食べることは必然になってしまう、そして無批判に長くもって過ごしてきた彼らの考えは(実はその考えは彼らが深く真摯な思弁の底に見つけ出したものではないのだが)ア・プリオリなものになってしまっている。
そのア・プリオリなものはア・ポステリオリなものに取って代わられることはない。
誰かに与えられたものであっても無批判に後生大事に持っていればそうなってしまう。
「それでも地球は回っている」
と嘆いた科学者の気分も少しはわかるだろう。
あの科学者のような歴史上の出来事にはならないが、われわれも日々そのような状況に囲まれている。
私事だが、昨日、話したくない人と話さざるを得なくなってしまい、しばらく話したが、これにはまいった。
わたしの心の方々に傷跡が残った。
傷跡は、「重いうつ気質」と「うつ病」の境目に住まいするわたしをほんの少し「うつ病」に追いやった。
そのため、わたしは昨日今日としばらく飲まない「レキソタン」を嚥下にした。
わたしの場合はこれでいいが、食っていくために社会と接する機会が多くなるあなたは計算高く対抗手段をもたなければならない。
その対抗手段の一つに心を外界から遮断する、帳を下ろしてしまうやり方がある。
離人症にもつながる危険なやり方だが、有効であることもまた確かだ。
社会と接するときに自分自身であっては身がもたない。
たとえば、誰かほかの人間を演じてしまう意識が必要だろう。(role-playing)
そういったことを真剣に考え実践することで、自分を守りたまえ。
そうしていれば、ときに自分をある程度出してもいいかなと思える人と出会える。
その意味で仲間はとても大切だ。
それが異性であろうが同性であろうが、老若男女問わずだ。
わたしなどは、猫を飼おうと考えているぐらいだから、人間であることも仲間の条件からはずしている。
そうやって日々をゆっくり自分自身で、少しだけでも楽しみながら過ごしていけば、また会うときもある。
そのときは、
あなたとおいしい紅茶を飲もう。
極上のチーズケーキでもほうばりながらがいいかな。
ラベル: 日常 考察
0 件のコメント:
コメントを投稿
登録 コメントの投稿 [Atom]
<< ホーム