2008年3月26日水曜日

捨てたものではない

コンビに払いの振込みがあったので、近くのセブンイレブンに行ったのだが、(そういえば、このところほかに振込みするばかりで、こっちへの振込みがない。昔風に言えば「風前の灯」…まさか消えているんじゃないだろうな)そこで、まともに応対する若者に出会った。

こういうコンビではマニュアルが決まっていてその通りに声を出せばいいことになっている。
よくは知らないが、ま、たとえば「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」、こんな具合だろう。
だから、コンビニというところでは意味内容も持たないコトバたちが、でかい顔をして飛び回っていることが多い。
というわけだから、その人の心が入るという景色はおよそお目にかかれない。

ところがいたのだよ。
自分のコトバを発する人が。

その若者は、マニュアル通りにしゃべっているが確かにそのコトバに重みをもたせてていたのだ。
はっとしました。
わたしは若者の顔を見上げて、「ありがとうね」と再度くり返し、若者の「ありがとう」を再度背中に受けながらコンビニを出たのだが、よもやこんな場所でコトバに重みをつけることのできる人物に出会えるとは思わなかった。

大変なんだよ、コトバに重みをつけることは。
コトバに重みをつけるというのは、どこか自分を開いている部分があって、見た目以上に傷つきやすくなっているので、そういうコトバを使い続けているのは、生来のものか、よほどまわりに恵まれている場合でしかないことなのだが、この若者の場合、後者であることをわたしは切に願うのだ。

今週、そのように自分のもっとも弱い部分をさらして生きてきた男と会うのだが、彼の場合はその姿勢はとらざるを得ない姿勢で、そうすることでしか生きられないようなところがあって、それを理解しない人間たちにぼこぼこにされているのだ。
そして、哀しいことに彼をぼこぼこにした人間たちは、彼をぼこぼこにしたという意識はまるでないのだ。
さらに、ややもすれば、もっとも弱い部分をさらけ出していることが間抜けだとのたまわったりするのだ。(事実、社会通念上は間抜けなのだが……、それでも見ているほうも切なくなる話だよな)

それはいい。
とにかく、今日は久々にいい若者に出会った。(一方的にだが)
彼が、うっすらとでもわたしに幸せを与えてくれたことを感じていればなおいいのだが。

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