イチゴジャム
イチゴジャムを作るのには手間はいらないが、時間はかかる。
かかるが故に工夫の余地もあり、あれやこれや思い悩みながらやっていった末に出来あがるとなかなかにうれしい。
最低の品質に近いイチゴパックふたつから30時間ほどかけて作り上げたのだが、私自身その作成過程を知っているものだからいやましてうまい。
さはさりながら、食い物というのは誰かに食べてもらわなければ完結しない。(正確に書けば、完結して次のループへ移ることがしっくりとこない)
ここらあたりが、本質的な孤独者の悲喜劇だ。
わたしなどは自分の作ったものを食べてくれる人ならだれといっしょにいてもかまわないと思うことがある。
そういえば、このまえやたら景気のいい文章を書いてみたが、少し補足しておきたい。(あまりにもがさつな書き方だったから)
補足しだすときりがないからほんの少しだけ。
「魅力的な女性」と書いたがそんなものがどこかに固定的にいるわけではない。
男にしろ女にしろ魅力的なものはすべて変化するものである。
その変化に振り回されず的を射抜けるかどうかが「魅力的」かどうかの判断の礎となる。
「魅力的な」ひとやものは、道端の石ころのように(道端の石ころもまた立派に変化しているのではあるが、変化率があまり極小であるために我々には変わらなく思えたりする)そこにいたりあったりするものではなく、いつも通り過ぎていく。(この場合、通り過ぎていくのは物理的にあちらからこちらという意味だけでなく、その内部においてもまた変化し続ける。変化しながら確かなものを身のうちに残していこうとする。
まあ、そんなことだろうな。これは、みなさんが魅力的な人なり、ものをよく観察なさればいい。実際のところはそれがあなたの答で、その答がここにわたしが書くような内容よりも勝っている)
長くなりそうなので中途半端にやめる。
「魅力的な女性」は常に通り過ぎていくものだから、こいつは、とその場でとらえなければならない。(手首をつかめといっているのでもないし、それが一瞬というわけでもない。けれども確かに彼女は通り過ぎていこうとしている。それが「魅力的」の構図だ。逆に言えば「魅力的でないもの」はその場にうずくまっている。あるいは、意識してその場を動こうとしない。たとえば美しさにしがみついたり若さにしがみついたりするように。「魅力的なもの」は立ち止まることを嫌う。それは沢登氏の歌詞で言えば「同じように見えて少しずつ変わってくキミのことをボクは知っているのだろうか…」という具合になる)
この変化のなかには「魅力的な人が魅力的でなくなること」も「魅力的でない人が魅力的になること」も含んでいる。
この場合「変化」ということがきわめてややこしい話になっているが「同じ日常のくり返しの中にも変化がある」ということを伝えるだけにしたく思います。
ここまで書いてくるとこの話は腰を落ち着けて長い文章にしていくしかなく、こういう形でここに提示したことをお詫びします。(あさはかでした)
なにやらいつも「しみじみ思う」ばかりのわたしですが、ほんとうにいつも中途半端ばかりですまなく思い、同時にいまは、早く長いしっかりした文章で伝えていかなければ「おえんな」と思っとるところですたい、坂本どん。
ラベル: 日常
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