庭先でのことだが
わたしの家には小さな庭がある。
日当たりはあまりよくなく、紫陽花や山椒やサカキやマキの木が申しわけなさそうにあるに過ぎないのだが、それはそれとしてなおしみじみと眺めることでわたしの心を和ませてくれる。
わたしの歳のせいか、心情のせいか、それともこのところの催花雨のせいかはわからないが、生き物はそういう語りかけをしてくれる。(数少ない人もそのなかには入っている)
ありがたいと思う。
その庭のちょうど真ん中あたりにわたしは穴を掘り、果物の皮や野菜の根っこや卵の殻や生ゴミの類を溜め込んでは埋めることにしている。
幼いころ父がしていたことを真似ているのだ。
父はその穴の中に小便もたらしこんでいた。
肥やしにでもなると考えたのだろう。(事実あの人は野菜作りに長けていた。ついでに言えば花を育てるのも植木を育てるのも小鳥や小動物を育てるのも長けていた。もしわたしが少しはましな男としてこの世を終えることができるのなら少なからず父のこの生き物たちを育てるという感覚を身につけたからだろうと思う)
紙くずは紙くずで父は風呂の焚き付けに使っていたし、たいていのものは再利用しようとしまいこんでいたからビンや缶等もあまり棄てることはなく、我が幼年時代の家はきわめてゴミ出しの少ない家だった。
考えてみれば我が生家の出したもっとも大きなゴミはわたしかもしれない。
さておき、そのいま住む庭先の穴を目指してカラスや猫などがやってくるが、(腐りかけた肉や魚も放り入れるためだろう)あの腐りかけたものを食べてもらえる様子を見るのは何か豊かな気分になる。
腐らせて捨てるわが身の至らなさを救ってもらえるようでずいぶんと助かるのだ。
そこへ、「ウンッ」と思う生き物がやってきた。
昼過ぎのことだし、一瞬猫かと思ったが、よく見るとそうではない。
猫とは違う動きでのっそりのっそり歩いていくのだ。
あの時は驚いた。
わたしの想像の域にはないものがやって来たのだ。
後で思えばアライグマかと思うが定かではない。
にしてはやけに細かった気もするが、写真を取るヒマもなかった。
驚いたわたしは次に大いに興奮したが、それを伝える家人はいない。
このあたりが、家族のいない人間の寂しさで残念で仕方がない。
と同時に少し前に書いた「異物」や「未知のもの」への対応のことも思い出し、そういうものたちへの対応はこのように難しいのだと反省したりもした。
あれはアライグマだからこの程度だが(アライグマだと思うのだが)、絶滅したはずの日本オオカミならわたしは卒倒していただろう。
自分がいかに見知った世界のなかで生きているのかしみじみと感じ入る穏やかな春の夕暮れのお話を書いてみました。
ラベル: 日常
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