2008年4月16日水曜日

羊の目


坂口安吾が若き日、「うつ」を語学学習で乗り越えた話は有名であるが、わたしは集中講座として今朝の午前中、たった二時間中国語教室に通うとすぐ重苦しい気分が襲いかかってきた。
まあ、クスリでしのぐわけだが。

いやはや

「羊の目」は今話題になりつつある小説で久しぶりに読み応えがある。
私見ではあるが、小説の読み応えとは梗概にプラスされる部分に因がある。
たいていの小説が粗筋としてまとめられる様子を眺めていればその作業の際に滑り落ちていくものが見えるだろう。
その滑り落ちていくものが小説の魅力を引き出すというのがわたしのひとつの小説の見方だ。(ここでコトバを選んでいるのは、小説の読み方など数限りあるのでわたしのいま語っているのはまさに私見でしかないことをよく存じているからです)

「羊の目」はその比喩をとっても、浅草という町の情景描写をとっても、人物描写から人物造形につながるしっかりしたタッチをとっても、申し分はない。(「超」がつくかどうかは別にして一級品と言えるだろう)
伊集院氏もいい書き手になったものだ。
こういう小説を読むととたんに自分の小説が書けなくなる(塗炭の苦しみという)。

この小説には、昨今では珍しい昔語られていた「男」が読むに値する形で書かれている。
このブログのつながりでいえば、「愚かしい男」が書かれている。
「愚かしい男」は、その「愚かしさ」の故に美学のようなものをもつことがある。(いつも「美学」をもつわけではないが、「愚かしさ」は何かしら必要のないものをもつ性があり、それは、たわいないもののように見えても見る人が見れば美しいものであったりするのだが、結局のところその「美しいもの」が破滅へ導くようなところがある。あるいは、野垂れ死にに導くようなところが)

このところ何も手に取れないような状態が続いていたが、今夜はこの一冊を読み上げることになると思う。

その先には町田康とわたしが書き続けるのを待っている作品がある。
こういう思いがふとよぎる夜はわずかながらわたしのココロは仕合せを感じている。
この気分、「羊の目」がくれたものだと知っている。
(だからと言って、「羊の目」を読んだところでだれもがこんな気分になるわけではない。けど、小説を読みながらなにがしかの気分に浸ることにはなるだろう。そういう作品を佳品と呼んでいいだろう)

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