2008年4月17日木曜日

目の前にいる人が大切で

わたしには「目の前にいる人」が大切で、その人に不必要にサービスしてしまうことが間々ある。
その分、いらぬ神経を使うわけだし、わたしのサービスが効果的かどうかも怪しいものだ。
さらに問題は…

この問題は最近気づいたことだが、わたしは「目の前にいる人」が大切なのだから「目の前にいない人」のことを天空に月が見えるように「確かにいるのだ」と思うことができない。
けれど、わたしにはできないが、「目の前にいない」わたしを思ってくれる人はいる。
このことは理屈ではわかっていたのだが、理屈などあまり説得力のないもので、何もわかっていなかった。

「目の前にいないわたし」を気遣ってくれた人は大切にしなさい。

かの人のように「目の前にいない人」を思いたい。
誰かがわたしの前にいても、ときとして遠い目でその人ではなく「目の前にいない人」を思いたい。

わたしがだれかにきついコトバを吐けないのは、そのことはそのまま酷薄さであるのだが、「目の前にいない人」への想像力のなさなのかもしれない。

この間、わたしは父のことを書いたが、書いた文章のなかにいた父は「目の前にいる人」だった。
文章ははそのように作用することがある。
ありがたい効果だ。

何のかんのと言ってみても
「あなたを大切に思っていた」
と言う人には頭を下げるしかあるまい。
その人は「目の前にいないわたし」に愛情を降り注いでいてくれた。

目の前からいなくなったわたしに、いかなる不実をしてもあまり気にならないのが、わたしの性質だ。
気にならないから、その程度のレベルでしか人間を知らないでいた。

そうではないように思う。(いまは)

家族というものが機能しているのであれば、それは「目の前にいない家族」を思うことから始まるのかもしれない。
だからわたしには家族が存在しなかったのかもしれぬ。

「目の前にいない人」を恋し、大切に思うことができるようになりたく思う。
そのとき、わたしは人を見る目が変わるかもしれない。

人は、その人が目の前にいなくても大事に思えるのだと教えてくれた人に感謝したい。

そういえば、また父のことを思い出した。

父に本を買いたいので金をくれないかと頼んだことがある。

「本ならおまえの部屋にいっぱいあるではないか、それを読めばいい」

父はそう言った。

わたしはそんなめちゃくちゃなと思った。
だって、わたしのほしい本は、いくらたくさんの本があってもそこにはないのだから、それは無理な話ではないか。

しかし、思い返してみれば、そのように考えられる父のことを理解していなかった。

「家族ならここにいるではないか」

このコトバもまた父と同じ気持ちで放たれたのかもしれない。
ずいぶんしっかりとした作りの弓を、思い切り引き絞り、矢は放たれたのだろう。

「家族ならここにいるではないか」

それが「あなたの目の前にいない人」であったとしても。

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