自分を大事にすることは…
「自分を大事にすることは、自分を愛してくれる友達への義務だと思っている」
これは、V・I・ウォーショースキーのセリフだ。
ウォーショースキーはサラ・パレツキーの探偵小説に出てくる人物で、「V」はヴィクトリアの略で作品中では「ヴィク」、「ヴィッキー」などと愛称されている。
なかなかに心にしみるセリフだが、こういったセリフはハードボイルドにはつきもので、その使い手ではフィリップ・マーローが一番というのが通り相場だろう。
アンソニー・バウチャーが「ハメット・チャンドラー・マクドナルド・スクール」などと括ったものだから、日本ではハードボイルドというジャンルはうまいまずいの差はあるが、ほとんどが一緒くたのように思われている。
それは日本がオリジナルにはハードボイルドとそのジャンルに登場する主人公を作り出せなかったことにも原因はある。(黒澤明「用心棒」は「血の収穫」を下敷きにしているといわれる)
しかし、その後彼らを範にして書き出した日本の作家の中には彼らのなかの差を強く意識する者もいる。
彼らとは、ここでは、
レイモンド・チャンドラー フィリップ・マーロー
ロス・マクドナルド リュー・アーチャー
ダシール・ハメット サム・スペード
以上のコンビと思っていただいて結構。
この中では、ダシールハメットが一番に粗い小説を書く。
粗いとは登場人物が洗練されておらず、書かれる世界が苛烈であることを意味する。
「タフでなければ生きていけない、 優しくなければ生きている資格がない」とフィリップ・マーローは言うが、「ダシール・ハメット」の世界には、そんなことを言って余裕をこいてる暇はない。
ハメットはお話としての構造がチャンドラーやマクドナルドとは違っている。
そのこじんまりしていない分、ハメットの小説は粗く、こじんまりしている分チャンドラーの小説は完成度が高く、イキである。
チャンドラーを範とする作家が日本に多いのはそのためである。
和製ハードボイルドのなかで追ってみても、生島治郎から原寮までの間に何人もいる。
そして、その中にはいくつかの成功した作品がある。
しかし、書こうとする対象をさらに広げたときに気の利いたセリフは必要なくなるし、文体も変わっていく。
「血の収穫」の訳者あとがきで田中小実昌が述べる「…ハメットの文章に、みんな注目した…。それまでにない英語の文章だったのだろう。乾いた文章とかなんとか、形容詞で説明のつくものではあるまい。また、ひとつひとつの言葉をひろいあげてもしようがない。ハメットの作品をまるごと読んでその文章だろう。」
これは、そのあたりのことを語っていると思う。
ちなみに「血の収穫」はハードボイルド・ミステリの元祖のように言われる作品で、主人公に名前はない。
長編の作品で名前がないというのはまことに不便で、それ自体が大きな試みとなるわけだが、作家ダシール・ハメットは、細々としたしゃれた作りをある程度この時点で放棄している。
この作品の主人公は「パーソンビルという町の構造」だというのがわたしの見解だ。
(もちろんすべての作品がそういうわけもなく、ハメットのもっとも有名な作品「マルタの鷹」ではサム・スペードというキャラがたっている)
はてさて、長々とこういう退屈なことを書いてきたのは、日本にもハメットを信奉する作家がいて、ある構造を描こうとしているのだが、彼の作品を最近、再読してみると細々とした部分にも十分に気を使っていることがはっきりとわかったからだ。
ハメットとても同じことで、細部をないがしろにしているのではなく有効射程距離が長いだけのことだ。
さて件の日本の作家は船戸与一というが、彼の作品は射程距離(つまりはなにを狙い撃っているか)がわからなければ、どの作品も同じように見える。
たしか福田和也が「作家の値うち」でさんざん船戸をけなしたはずだが、福田にはこの射程距離が見えていない。(トンマだからね)
そして、さらに問題なのは、射程距離は小説の作品としての値うちとは関係ないかもしれないことだ。(困ったことにこの点では福田の言うとおりでもあるのだ)
これは、V・I・ウォーショースキーのセリフだ。
ウォーショースキーはサラ・パレツキーの探偵小説に出てくる人物で、「V」はヴィクトリアの略で作品中では「ヴィク」、「ヴィッキー」などと愛称されている。
なかなかに心にしみるセリフだが、こういったセリフはハードボイルドにはつきもので、その使い手ではフィリップ・マーローが一番というのが通り相場だろう。
アンソニー・バウチャーが「ハメット・チャンドラー・マクドナルド・スクール」などと括ったものだから、日本ではハードボイルドというジャンルはうまいまずいの差はあるが、ほとんどが一緒くたのように思われている。
それは日本がオリジナルにはハードボイルドとそのジャンルに登場する主人公を作り出せなかったことにも原因はある。(黒澤明「用心棒」は「血の収穫」を下敷きにしているといわれる)
しかし、その後彼らを範にして書き出した日本の作家の中には彼らのなかの差を強く意識する者もいる。
彼らとは、ここでは、
レイモンド・チャンドラー フィリップ・マーロー
ロス・マクドナルド リュー・アーチャー
ダシール・ハメット サム・スペード
以上のコンビと思っていただいて結構。
この中では、ダシールハメットが一番に粗い小説を書く。
粗いとは登場人物が洗練されておらず、書かれる世界が苛烈であることを意味する。
「タフでなければ生きていけない、 優しくなければ生きている資格がない」とフィリップ・マーローは言うが、「ダシール・ハメット」の世界には、そんなことを言って余裕をこいてる暇はない。
ハメットはお話としての構造がチャンドラーやマクドナルドとは違っている。
そのこじんまりしていない分、ハメットの小説は粗く、こじんまりしている分チャンドラーの小説は完成度が高く、イキである。
チャンドラーを範とする作家が日本に多いのはそのためである。
和製ハードボイルドのなかで追ってみても、生島治郎から原寮までの間に何人もいる。
そして、その中にはいくつかの成功した作品がある。
しかし、書こうとする対象をさらに広げたときに気の利いたセリフは必要なくなるし、文体も変わっていく。
「血の収穫」の訳者あとがきで田中小実昌が述べる「…ハメットの文章に、みんな注目した…。それまでにない英語の文章だったのだろう。乾いた文章とかなんとか、形容詞で説明のつくものではあるまい。また、ひとつひとつの言葉をひろいあげてもしようがない。ハメットの作品をまるごと読んでその文章だろう。」
これは、そのあたりのことを語っていると思う。
ちなみに「血の収穫」はハードボイルド・ミステリの元祖のように言われる作品で、主人公に名前はない。
長編の作品で名前がないというのはまことに不便で、それ自体が大きな試みとなるわけだが、作家ダシール・ハメットは、細々としたしゃれた作りをある程度この時点で放棄している。
この作品の主人公は「パーソンビルという町の構造」だというのがわたしの見解だ。
(もちろんすべての作品がそういうわけもなく、ハメットのもっとも有名な作品「マルタの鷹」ではサム・スペードというキャラがたっている)
はてさて、長々とこういう退屈なことを書いてきたのは、日本にもハメットを信奉する作家がいて、ある構造を描こうとしているのだが、彼の作品を最近、再読してみると細々とした部分にも十分に気を使っていることがはっきりとわかったからだ。
ハメットとても同じことで、細部をないがしろにしているのではなく有効射程距離が長いだけのことだ。
さて件の日本の作家は船戸与一というが、彼の作品は射程距離(つまりはなにを狙い撃っているか)がわからなければ、どの作品も同じように見える。
たしか福田和也が「作家の値うち」でさんざん船戸をけなしたはずだが、福田にはこの射程距離が見えていない。(トンマだからね)
そして、さらに問題なのは、射程距離は小説の作品としての値うちとは関係ないかもしれないことだ。(困ったことにこの点では福田の言うとおりでもあるのだ)
ラベル: 小説
1 件のコメント:
理屈は理屈だもんな。
楽しめばいいんじゃないの。
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