2008年4月22日火曜日

われ、他者の影響下にあり

基本的には「好き嫌い」は個人の問題であり、他者とは何の関わりを持たない。
関わりがあるように振舞うのは擬態かあるいは「他者の影響下にある」場合だけだ。

わたしが女優「ケイト・ブランシェット」を好んでいるとしゃべったところで、基本的に第三者は「それがどうした」という態度をとる。
わたしの好悪は第三者に対して何の意味もないからである。

もし、わたしの好悪に意味があるならば第三者もわたしの好悪の感情に鋭敏に反応することになるだろう。
それは、わたしが第三者に対する支配者であったり(そういうことはあまりないが、上司や教師ならば若干似ているか、いや、彼らが支配者になる可能性は極端に少ないが、それでも生殺与奪の権を握られているとしたら、かなり支配者には近くなるだろう)、あるいは敬愛される人であったり、ほれられている人であったりする場合だ。

その場合は、時には擬態として関心あるように振舞うだろうし、時には実際にわたしと同じものを好きになりたくて目を輝かすだろう(そういうことはまれだがね)。

というようなわけで、わたしは自分の好悪をあまり語らない。
しかしめんどくさそうな相手だと相手の好きなものをあえて聞いたりする。
自分の好きなものに興味をもっているというのは(質問とはそういう効果もある)、相手への好意の表明によく似ていて、うっかりするとだまされてくれる。
もちろん、そうじゃなくてする質問のほうが多いが(わたしはそれほど狡猾ではない)、ま、時にはそういう道具として相手の好悪を尋ねることもある。

このところ前に書いたものが気になって、次の回、それに書き足すというふうになっているが、これがもともとものを考えるスタイルかと思う。
螺旋を描きながら思考は進んでいくし、物語も進行する。

出来上がったものを捧げもののようにしてお届けしていないことをあまり叱らず、これがわたしの思考過程だということで、思考過程をお見せしているのだということで、ご寛恕ください。(未熟者なのです)

ものを考えることは持ち重りのすることで、螺旋を描かないと前に進めないのです。
だいぶに重くなってきているのです。
だから、あっちへふらふら、こっちへふらふらでしょ。

ラベル:

0 件のコメント:

コメントを投稿

登録 コメントの投稿 [Atom]

<< ホーム