2008年4月27日日曜日

多くは望まない、歌があればいい


このまえの木曜日には「タカダワタル的ゼロ」の試写会に出かけた。
その日も雨が降っていた。
音響効果で有名な旧徳間ホールにはそれらしい人が集まっていた。

「タカダワタル的ゼロ」は「タカダワタル的」の次の作品になるが、撮られた高田渡は「タカダワタル的」より前の渡だ。
久々に眺める渡はスクリーンの上とはいえ、懐かしい高田渡だった。
大晦日の下北沢「ザ・スズナリ」ライブを中心に描かれた作品だが随所に渡の日常がモンタージュされる。
スクリーンでは清く正しいとは見えにくい一人の飲んだくれの日常が、まことに清く正しく見えるのだ。
初めて拝見する奥さんもタカダワタル的な奥さんだった。
渡の愛した焼き鳥屋、吉祥寺「いせや」はもとより渡のまわりはみな暖かい。
これを渡の人徳といったのでは、あまりに自分がせつなく思えるほど暖かさに包まれていた。
競演の泉谷しげるも彼なりの暖かさを示し(それはわたしの苦手な表現方法だったが、わたしが苦手であろうがどうであろうが、そんなちんけなことはどうでもいいのだ)、渡は彼にやさしい視線を送り、泉谷もまた暖かくわたるを包んでいた。

そこには、ギターを弾き歌う渡とそれを聞く聴衆がいた。

我々はそんなに望むことを沢山もってはいないのではないか。
そういう景色が見えていた。

だれも羨まなければ、ひとは自分を着飾りはしない。
だれもそれに目を見張らなければ豪奢な生活を望みはしない。

誰かが何かを使い、目を見張る観客を再生産している。
その目にステキに映りたくて、ひとはがんばる。
けれどもその目がなければ、こんなにもがんばる必要はないように思う。

そもそもひとは自分のためだけに生きることには飽きやすくできている。
心ある先人の指摘だが、スクリーンを見ていてそう思う。

こういう日は何も考えず、温かい人のなかで呑んでいたいものだ、そう思いながらわたしは久しぶりに試写の帰るさ、酒を口にした。
そして、あろうことか、極まれにしか訪れることのない、限りなく暖かい酒宴の席が舞い降りた。
その酒宴は午前一時を過ぎても続き、わたしは貸切のようなその店で気のおけない女性二人といつまでも陽気に語っていたのだった。

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