2008年4月24日木曜日

環境ラジカリスト

地球環境保護の後ろに隠れているものをひとつ取り上げれば、「人間が生きるために必要な」地球環境保護となるだろうか。
現在の世界人口は確か66億から67億へと移行している途中だと思うが、いまだにはっきりとは
「これだけの人類をこの地球では養えない」
という強力な意見は聞かない。
しかし、養うのが難しいのは間違いないだろう。

ドイツの環境ラジカリストたちに言わせると5、6億人が地球に優しい人口ではないか、となる。
「地球に優しい」と呪文のように唱えているが、地球に一番優しくないもののひとつに異常に増えすぎた世界人口がある。
その人口を減少させても地球環境を保護しようというのが環境ラジカリストの主張だ。
ぬるいエコロジストは暗黙のうちに人類の生存を前提においている。

つい先だって「八日目の蝉」を読んだが、その内容はともかく、セミが成虫になって七日間で死ぬというのはおとぎ話だ。
かれらはうまくいけば一ヶ月生きることもある。
個体差はあるが、セミがはかなさの象徴となるのは物語の世界だけだ。
はかないなら吉野弘「I was born」のカゲロウがよりはかないだろうし、蚕の成虫はさらにはかなかろう。(蚕の成虫である蛾は蛹から孵化すると卵を産みすぐに死ぬ。蚕の成虫には口がない。もともと生き続けるようにはできていない生き物だ)

ところで、この「はかない」というのは、おわかりのように人間の観点から見てのことで、虫はそう思っているかどうかはわからない。
「観察思慮してみると、虫にとって大事なのは子孫を残すことだと思える」とある昆虫学者は話した。
つまり、長く行き続けるより子孫を残すほうに価値をおいているのだ。
考えてみれば人間もそうで、子どもができないために実家に戻された女性が昔はいた。
それがいつのまにか、長生きを美徳とする風潮が生まれた。

しかし、長生きはほんとうに美徳か。

田村隆一は延命処置を拒否して死んだ。

長く生きることが美徳かどうかは人間にのみ与えられた課題で、野生動物の場合は、身体に故障があると死が待っている。
故障どころか体力が衰えると、つまり速く走れない、長く歩けない、空腹に負ける、渇きに負ける…ことはすぐその先に死が続く。
人間は獲物を狩る必要はないが、それでは何ができなくなると死が待っているのだろうか。

心臓が止まるまでというのはどこからもってきた発想なのか。
地球上に住む生物たちに対して少し恥ずかしいような気もするが、穿ちすぎか。
そう思うことがある。

それとは別に老いた父母に長生きをと思う心も、振り返ればわたしのなかにあった。
残念ながらわたしはそのことの検証がうまくできないでいる。(父母が倒れてから死ぬまでの間、わたしは両方とも長くつき合わなかった)

地球環境保護というとき、継続するその常軌を逸した人類の人口爆発をどう考えるのか。

本日、このブログ、かなり危ないことを書いているが、さらに続ける。
野生動物が倒れたときにその死を悟るように人もまた太古はその死を悟ったのではないか。
そういう問題が地球環境保護や後期高齢者医療の問題の背後には不可蝕な問題として横臥している。
もちろんもっと短絡的には日本の世界に誇るべき国民皆保険制度をアメリカが破壊したがっている事情がある。(毎日大量に流れる外資系保険会社のコマーシャルが国民皆保険制度を憎みきっているかの国の意志だ)

それはそれとして、そこまでして生きる必要がわたしたちにあるのかどうかは、引き受けなければならない問ではないだろうか。
もちろんこの問はわたし自身の問題として、あなた自身の問題としてだ。
肝心なことだが、他者の死は、この設問で考えることは危険すぎるし、おそらくしてはならないのだろうと思う。

通り過ぎることはできてもそのまま捨ておくことはできない問題。
いずれは向き合わなければならない。
それはあなたやわたしでなくても我々の継承者たちがだ。

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