東京飄然
育てたもの、育っていくものを見続けることができないのは、そういう時間をしばらくでもとれないのは、己の中に大きく欠けたものがあるからなのだろうか。
庭にある過ぎ去ろうとしているクンシランの花を、見ていた。
隣の観葉植物を、見ていた。
熊谷守一翁は自分の庭の草花や石ころを見て飽きることを知らなかった。
ハエの姿態を眺め、ハエがいなくなることを、寂しがった。
なにかを見つめることはどのようなことなのだろう。
わたしは美しいとされる花もじっくりと見ることのできない、そのくせ思いだけが留まることもなく…。
見ることのできない者のもつ思いも、思いと呼んでいいのだろうか。
カメラのシャッターを押すことで、文章に書いたことで、何かを写し取ったように思うが、なにかを写し取ったとはかぎらない。
そういうことを鉢植えのかれらはいう。
CHEGA DE SAUDADA
「東京飄然」は町田康のエッセイだが、珍しくこの作家が苦労して書いている。
苦労して書けばいいものができるという保障はなく、この作家の場合は痛ましい。
それを補って余りある作品群に埋もれているから見えにくいが、町田は町田でということか。
熊谷翁が「(自分は)生きるのがすき(なのだろう)」とあるとき、もらしたらしい。
この「すき」は大きく岩のようだ。
こういう「すき」もときには、ごろりところがっている。
何かを見ることをしたくなっている。
見たものをそのまま身のうちに入れるという作業は自分の身体を使い、試みるべき確かめだ。
むかし屋久島でそのことを試みたことがある。
石塚小屋から宮之浦岳へと続くわたしと亜熱帯の植物との交感。
見たものは、聞いたものは、嗅いだものは、身のうちへ流し込んでいくが、観察はしない、批評はしない、ただ見のうちへ流し込んでいく。
そのときに撮らなかった写真は、書かなかった文章は、その流れへの堰に過ぎない。
わたしは堰ではないものを欲している。
妄言多謝
ラベル: 作品
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