それは当たり前ではなく
ひとは自分のいる世界にはびこる常識をあたりまえのことだとたやすく思ってしまい、それを疑うこともしない。
もう30年近く前になるが、わたしはナイロビにしばらくいたことがあるが、そのころの知人は結構死んでいる。
それでも、その訃報を聞くたびに「ああ、そうか、そんな風になってしまったのか」としばらく思うだけで、またこの日本の常識に戻ってくる。
日本ではあまりひとは死なない。
アフリカの地の頻度に比べれば、日本で死に出会うことはまれだ。
ケニアでは死はもっと日常に近かった。
そして、いまイラクでもパレスチナでもスーダンでも少し目を凝らしてみれば、日本とはまったく違う死の近さがうかがえる。
どうしてそんなことになっているかというと、それほど長期間平和である国に我々が住んでいるからだ。
「平和ボケ」と悪くは言うが、「平和ボケ」できる国など世界中探してもそうそうない。
我々は知らず知らずにかなりの幸せを享受している。
そして、その幸せのなかで呆けている。
もちろん呆けている中の一人がわたしだが、まあ、よくもここまで呆けたものだ。
その結果何がこの日本で進行したかは昨今の問題を見ていけばわかる。
そしてそれが日本で起きている問題なのに対岸の火事のように見ている。
もちろん当事者として後期高齢者医療制度のため自殺した親子はいるし、実際にその起こりつつあることで悲劇も生じている。
しかしながらだ。
死ぬのはいつでも他人だし、事件も他人に降りかかる。
はてさて、この平和な日本に住み、いつまで呆けていられるのだろうか。
時には正気になろうと思い、最近は庭先のクンシランをよく眺める。
クンシランが色づき始め、それは蕾に、そして花へ、花は開き、さらに開き、数日の後花は見事に咲き誇った。
咲き誇った花は一週間以上もわたしの前で艶やかだった。
写真の花に白いものが見えるのは花の終わりの兆しだ。
花が移り変わっているのだ。
眺めるわたしはいまだに自分の老いの兆しを自覚せずにいる。
ラベル: 日常
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