2008年5月2日金曜日

料理は愛情

ある程度精神がしっかりしてくると料理をすることがある。
逆に料理をしたくなるとき自分の精神の状態がまんざらではないと思う。
いまがそのまんざらではない状態でときどき料理をしたりする。
ここにも書いたが、たとえばイチゴジャムとか、ちょっとした炒め物とか、チキンのクリームシチューとか、チキンカレーとか、そういうものを作っている。
つぎは赤飯を炊こうかと密かに思う。

とはいうものの、料理の醍醐味というのはだれかと食事をともにしながらその関係性を味わうところにあって、一人座る食卓では肝心の関係性が食卓に上がることはない。
この点において、わたしの料理から食事へと続く道はローマへ到ることはなく、ただある種の荒廃を身のうちに見出すことになることが多い。

「料理は愛情」と、たわけたことをいっている奴らがいるが、料理は愛情では作れない。
嘘だと思うなら料理をしたことのないあなたが愛情込めて作ってみたらいい、きっとすばらしい料理ができることだろう。

では、「料理は愛情」というのは嘘なのかというと、実はまんざら嘘ではなく、あまりにも省略しすぎた表現のため誤解を生んでいるのだ。
料理の根っこに食べさせる相手に対する愛情があるならば、その相手がおいしいと思うものを作りたいと思い、おいしいものを作るためにあれやこれやの試行錯誤をする。
つまり、知人に料理の話を聞いたり、書籍を読んだり、実際に自分で作って何度も検証したりすることになる。
その結果、相手に提供して、「おいしいね」とことは運ぶ。

料理がおいしくなるのは一にも二にも技術を高めることに尽きる。
この場合の技術は詳細すればそのまま一冊の本になるわけで、料理技術についてここでわたしが語るのは任が重い。
「辻静雄」さんの本を何冊か読んでみればいい。

というわけで「料理は愛情」というのはその出発点をいっているに過ぎず、そのほかの動機でも料理をおいしく作ることはできる。
わたしが「数寄屋橋次郎」をもてはやす空気が嫌いなのは、あの店にいかに技術があろうとも、そしてその技術で握られた寿司がいかに美味でも、そこにはわたしへの愛情がないこと、つまりなんらの関係性も握られた寿司ではないことを知っているからで、さらにそれに対してあの馬鹿高い勘定を払うことのくだらなさに頭痛がするからだ。

高い料金は魔法で、その金ゆえにある関係性がそこにあるように幻想してしまう。
だからどこぞの男が女を連れて高いフランス料理でも食べさせれば、少なからず女は暗示にかかる、まあそういう女がいまの主流だ。

だが、語ったようにそういうところには愛情も何もない。
よき関係性が料理をうまくするのであって、うまい料理がよき関係性を証明するのではない。
そして、よき関係性の上に立って、初めて料理の技術が云々されるので、単なる技術は技術でしかなく職人としては認めるのにやぶさかではないが、あなたの人生にとっては、それほど大切なものではない。

そういう意味で、まことにもって「料理は愛情」なのだ。

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