2008年5月18日日曜日

日常のしぐさ

日常のしぐさのようなものが、わりと大きな流れを形作ることはよくあって、それは、毎朝無理にでも食卓を囲むことなどに象徴されるのだが、とても大切なものだと考えたほうがいいだろう。
少なくともいま、わたしの指向はそういう場所に立っている。

このブログで家族がいるようないないようなことをわたしは書いているが、実際にまさにそのような状態なのである。
法的には妻がいて、長男と長女がいる。
長女はこの七月に、アメリカの留学から帰ってくる。
ずいぶん英語力を伸ばしているらしく、それはそれで喜ばしいことだ。
うまく生きれば、語学は飯の種になる。
大事な感覚だろう。
長男にも中国語があって、彼もまたいつの日か、それを飯の種にする日が来るかもしれない。
それもまたいいことだろう。

ところで、娘がアメリカから帰ってくる前に細君が自宅をリフォームをしたいというので、なんとも勝手に生きているわたしには断る理由もなく、金は何とかするから、好きなようにすればいいと答えておいたのだが、先日、二階を娘が陣取るので、ベランダに洗濯物を干すことが難しくなるかもしれないという。(アメリカナイズされた娘はそのように部屋を横切られるのが苦痛だろうという配慮だろう)

わたしは家事全般を細君に任しているわけではなく、ほぼそのすべてをわたしがこなしている。
他人に世話になるのはあまり好まないし、世話になったときのわたしの恐縮具合もあまり見栄えのいいものでもない。
それでも時に細君の入れてくれるコーヒーなどというのは大変にありがたく、この一杯のためにこの女といっしょにいてもいいと思うくらいにうれしいものだ。
ひっくり返せば、お茶の一杯も入れてくれることもない、そして、そのときに話もしない人間を細君や家族と呼ぶ必要はないし、なんのつもりで家族だなどと思うのか思う他人の気分がわたしには不快だ。

さて、二回を娘が占拠し、わたしの洗濯物が晴れた日の下に干せなくなるのは大変に困るなといま思っている。
洗濯したものを日光にさらすのはわたしの「日常のしぐさ」としては大変に大きい。

この問題が今後どのように展開するのかはわからないが、このわたしの大切な「日常のしぐさ」を我が家族が奪うことがあるのなら、わたしは家族と別れてしまおうと思っている。

ただ、洗濯物が日光当てられない屈辱のためにわたしは別れようと思っている。
それは、新しい女ができただとか、細君が浮気しているだとか、近所から銃が撃たれるだとか、そういうありもしないことも混ぜた事件よりもわたしには大きなことで、「日常のしぐさ」の中にあらためて自分の譲れないものが不自然に毅然とあるということをわざわざ皆さんに伝えたいがためにここに記しているのである。

だから、近い将来、洗濯物が干せないだけで家族と別れた馬鹿がいるというニュースが流れたときもこのブログの読者であるあなたは、「そういうこともあるだろう」と密やかに頷いてほしいのだ。

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1 件のコメント:

Anonymous 匿名 さんは書きました...

本日は某所でお世話になりました。

洗濯干しの件、共感かわかりませんが、同感です。

自分も洗濯、掃除、片付けはやって当たり前というか趣味の領域になっているとも人からは言われますが、部屋を広く使いたいとかプライバシーを守りたいとか、そういう二次、三次的な権利よりも、基本的な生活や常識的な日常生活よりも優先しようとする考え自体に違和感を感じます。

子供に広く使わせたいからベランダに干せない。親心なんでしょうけれど、それをそのまま受け入れる人ばかりの社会になったら居心地がちょっと悪いような気がします。
生意気言ってすみません。

とんぼ丸さんと今度飲みながらお話ししたいです。

2008年5月25日 15:43  

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