2008年5月19日月曜日

ハチドリと山火事

わたしは、ハチドリと山火事の寓話があまり好きではなかった。
ハチドリの美徳の陰に何か大事なものが隠されているかのように思ったりしていたからだ。

しかしながら、長崎大学留学生諸君の止むに止まれぬ募金活動を見て、ハチドリのけなげさも見過ごすわけにはいかないし、もう一度自分に突きつけるべき問題なのだと実感した。

21日にはパン・ギムンがヤンゴン入りするとの報道もあった。
被災者250万とも言われるビルマに助けの手が伸びることを期待するし、わたしもハチドリのようになにがしかの行動をすることにしたい。

「何かを知ることが重要ではない、問題はそれをどのように知るかだ」

ときどきわたしが口にするこのコトバは、多分に語弊を含んでいる。

「知ることが無意味というのか」
そういう反論はもちろん招くが、知ったことにおいて止まってしまう認識の浅い状態への肯定を撃つ場合にはどうしてもこの言葉を吐かざるを得ない。
ミャンマーの問題も大きなそのひとつだが、この種のことはそこら中にころがっている。

たとえば、村上春樹の「ポートレイト・イン・ジャズ」や「意味がなければスイングはない」のブライアン・ウイルソンの話を読むときに、(もちろんその中に書かれているミュージシャンたちを知らないわけではないし、ブライアン・ウイルソンを知らなかったわけではないのだが)わたしは何を聴いていたのだろうと思う。
そして、どこかでビーチボーイズの話をしてはいなかったかと自分が不安になる。

知っていることをただ知っているだけでしゃべるみっともなさというのがあって、(もちろん、これは酒場で要求するようなものではないのだが)こういう本を読むときに激しく頭がぶつかってしまう。
この前紹介した「美食進化論」もそういった本だ。(食を深く掘り下げようと試みたものだ)

ただし、どのようにといったところで、文章にできなければいけないということではない。

わたしはチェン・ミンという二胡奏者が好きで「我願」などはしょっちゅう掛けている。
だから彼女の曲に関してはどのようにかは書けないが、書けないけれど、それはただ知っているだけではなく、ある仕方で知っている。(そういうどのようにもある)

そのようなただ知るというだけでない「知るという」行為があることを語るときに、あなたはどのように知っているのかという思いが脳裏を駆け抜ける。

あまりにただ知っているだけの集合がわたしのなかに渦巻きすぎているせいかもしれない。

書かなければならないとき必ず対象をどのように知っているかの問題は起き上がる。
そのときどうするかは各々の問題だが、これは書き手だけがもっている問題ではなく、日常のなかだれでもがもっている問題なのだと思う。
中途半端だが、この項はここで終わり、いつかさらに深めて書き継ぐことにします。

最後にとても大事なことを付け加えておきたい。

逆のことがある。
何の意味がなくてもコトバを語ることがとても大切な場面、場所がある。
意味のないコトバを投げ合うことで、人は人と生きていくよすがを生み出すことができる。
それをぼくたちは家族と呼んだり、仲間と呼んだりする。
その関係を守るためのコトバは、あまり深い意味がないほうがいいし、まったくないほうがいいこともある。(もともとはコトバなどいらない関係だから、コトバはメロディーのように流れていればいいのだ)

コトバがそこに流れるだけで養う関係があるというのはとてもステキなことだ。
そこに言葉の意味を持ち出す奴が登場すれば、みんなとても困るはずだ。

それは空気が読めないのとは少し違う。

意味のないコトバを語りたがらないのはその人間のあり様だ。
「presence」が違うのだ。

わたしに悲劇があるならば、そこに集約している。

「それ(=そのあり様)でもいいか」という納得が、いまのところのわたしの立場だ。
そういえば、耳にしたことがないだろうか。

「自由は孤独であがなえ」

そういうあり方もありということだ。

書いている途中から思ったが、ずいぶん複雑なお話だ。
わかりにくければ、それはこのブログの分量と考察の浅さと整理不足によるものです。

不十分なもので申し訳なかったです。

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