2008年5月20日火曜日

おとなりさん

わたしの家の小さな庭には穴が掘ってあって、そこへ生ゴミを捨てるのがわたしの日課で、こういう日課がわたしの一日を埋め尽くしてくれていれば、わたしもずいぶん平穏に暮らせるのだがな、と思ってみることがある。
そう思うのは、感慨といってもいい作業ですが、それは父母から引き継いだものにつながる水脈だとわたしにはわかっていて、それが暗渠になってしまうことなく庭の垣根を出た先にちょろちょろ流れる小川であってほしいという願いをもっています。

わたしが生ゴミを捨てに庭先に出るには、家の脇を通らざるを得ず、東京の住処というのは大方はせまっちいもので、その際に通る細い通路は隣家に接している。

先日のことだが、生ゴミを捨てて帰るさ、お隣の家の窓が開いて、生きていればわたしの母と同じころ八十歳前後の婦人が顔を出しておっしゃるには、先月夫を亡くしまして、そのときはお騒がしくしました、ということであった。
なんでも娘夫婦なども集い、賑やかだったそうである。
わたしはといえば、そんなことはつゆ知らずに生活していたのだから、「そうですか」を何回となく繰り返すしか返答のしようはなかったのだった。

その折、ご主人が86歳で亡くなったことやその前に大きなガンの手術をしていて、それからずいぶん長く生きてくれたこと、だからあまり哀しくはなかったが、やはりときどき哀しくなるのだということなどを婦人は隘路に立つわたしに話したのだ。

騒がしかったことを詫びようと思ってとおっしゃっていたが、わたしに話しかけた理由がどんなところにあるのかは、微妙なものだろう。
機微といっていいだろうか。

何かあればと声をかけてわたしは、家へと戻るのだが、それはおざなりではなく、いつか何か家庭料理を作ったときにもって行こうかとか、神田川の疎水べりの散歩に誘おうとか…、いろいろと思っていたのだ。
遠い昔の淡い気分がそのときのわたしにはあったし、「おとなりさん」というコトバのなかにそういう淡い気持ちの交感が流れていることを思った。

梅雨が終わった頃、初夏の日差しの中、わたしは婦人と何を話しながら疎水べりを歩いているのだろうか。
「おとなりさん」というコトバを思い出すとき、このごろは、そういう夢想を楽しんでいる。

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