2009年5月2日土曜日

評論家の意見

評論家に対する偏見を書けば、かれらは常に部外者だということだ。
部外者に何事かを語る資格はない。
いざとなれば逃げ出すから、なんらの信用も置けないというわけだ。

そういう評論家はごろごろしているし、たいていの政治家の意見もまた評論家の意見と同様だ。
受けて立つ覚悟はない。

つまりひとかどの人物ではないのだ。

そしてさらに絶望的なことに、普通に生きている人々もまた評論家の意見しか持たない。
TBSラジオの「アクセス」などを聞いていると驚くほど部外者だ。

基本的に部外者に生きている実感はないとわたしは思っている。
だから、ひそかに彼らに生きている意義はないと思っている。
(ほんとうは、それでも彼らにも人間関係がある以上、このような乱暴なことを語ってはならないのだが)

では、どこに評論家ではない意見があるかといえば、私見ではあるが職人のなかにある。
この職人というコトバは広くとらえてもらいたい。

何かを作り出している人であり、かつその作業にプロ意識を持っている人。
この人たちのコトバは重い。
そこに生活があり、生きている実感があるからだと思う。

芸術家は似ているが少し危ない。
なかに傑出した意見を語れる人はいるが、職人ほどは信用できない。

これがざっと見回したこの日本の様相だ。
もしかしたら日本を世界と言い換えてもいいかと思う。

生きている実感のないところにまともな思いは生じないというのが、断固たるわたしの偏見なのです。

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