2009年3月8日日曜日

相手を理解するということ

飲み屋の会話の多くが薄っぺらく流れていくのは、飲み屋がそういう場所で議論するのに似合わぬ、ゆったりした気分を味わうための場所だからだ。

逆に飲み屋でよく言い争いになるのは、飲み屋が議論に似合わぬことをわかっていない人物たちが自分の考えが正しいものであるかのように思い、お互いに議論するからだろう。

自分もまた間違いを抱えているかもしれない、自分と違う立場もあるだろう、そういった想像力が決定的に欠如した人間の話に生産性はなく、多くの場合くだらぬ言い争いになる。
(わたしもつい先ごろ経験した。相手に多くを期待しすぎたせいだ)

相手を理解するためには自分の中に多元主義を持っている必要がある。
有体にいえば、自分以外の立場もあることを知っており、自分と違うその立場はどのように違うのかを理解しようとする気分を持っていなければ、話していてもろくなものにはならないし、残念ながらそういうお人はこの世にそう多くはないということだ。

だから、多くの場合なあなあの関係か、敵対視することになる。

しかし、それ以外の関係の持ちようもある。

それにはまず相手を理解しようとする姿勢が必要で、この姿勢を持つことの難しさは相手を理解するとき自分の立場を一時的にせよ(場合によっては半永久的に)捨てなければならないからだ。

人はかならずしも正しくはない。
しかし、今のわたしはこれを正しいと思っている。
あなたの考えを聞くことで、今のわたしに新たなものが見えてくればいいのだが…

このような気分を両者が持ったときに、はじめて議論のようなものが成立するのだろう。

もっとも議論などせずにゆっくり二人でお茶など飲むほうがずっといいのかもしれないと最近は思うのだけれど。
誰かとゆったりしたそういう時間を持ちたいものだ。

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