2009年3月19日木曜日

まことに恥ずかしい話だが…

何事にもって先達は必要なものであることよなあ。

この世には無数の本があり、無数の映画があり、無数の絵画があり、無数の器がある…
そのすべてを見てみたいものなのだが、そう欲するのは童の戯れ、どこかで切り捨て選ばねばならぬときが来る…、限りアル人生ならば。
そのときに、信用する(そう思っていける)先達があれば助かる。

先達に導かれ、本を読み映画を見ていけばよいのだから。

わたしはそのようにしてクリント・イーストウッドの映画を見てきたがいまだにその映画のよさはわからない。
けれども先達に対する信用は失墜することはないのだからこれからもイーストウッドの映画は見ることになるのだろう。

本もまた同じで、わたしは恥ずかしながらアン・タイラーを読んではこなかった。
ここでもまた先達がいて、この人の本を教えてくれた。
わたしの終わりが来るまでボチボチ読んでいけると楽しみになった。

いい本に、映画に、絵画に、器に…出会うのではない。

いい先達を持つことに必死になることだ。
それと先達を見極める感性を…

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