2009年3月16日月曜日

言説を操る

一貫した言説を取り続けるのは難しい。
このことは知っておく必要がある。

状況が変われば変節することはあるだろう。
この場合の状況は、周りの状況(環境)であり、自分の状況である。

もともと人間はそのように出来ており、一貫するのは姿勢でしかなくその姿勢から提出される言説がいかに変わろうと姿勢さえしっかりしていればいい、というのがわたしの考えだ。

変わったそのことを問題とせず、変わっていった過程を問題にしたほうがよかろうと思う。
それは、「しぐさは嘘をつかない」という信頼に通じる。

誰かとコトバを交わすとき、そのコトバの内容を聞き取るのに終始せず、コトバの端々に見えるその人の姿勢、とりわけしぐさには気をつけたい。

言ってしまえば、コトバなどいかようにも吐けるのだ。

[自分らしく生きていたい」

と語ることは出来ても「自分らしく生きる」こととは何の関係もない。
コトバにすれば達成したと思いそうになるのは困った現象だ。

信ずるに足るのは「しぐさ」。

ほれるのならば、その容貌ではなく表情。

[美人は三日で飽きるが…」

というコトバは背後に「しぐさ」を眺めたものだ。

言説だけに満足を得るのではなく、日々自分と対話していきたいものだと思う。

そうしていけば、いつか夢を見る時間と接触できる日も来る。
生きているのは自分に姿勢を意識したところに始まるのではないかとも思う。

情報を怖がるのは相手の言説におびえるからだ。
いくら大量の情報を持っていようが、その人の姿勢、翻っては「しぐさ」を見ればそうでもないとわかってくることは多々ある。

[何を知っているかではない。何をどのように知っているかが問題なのだ」

というのは、この姿勢・しぐさに向けて発せられたコトバだ。

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