2009年3月25日水曜日

百年に一度の不況とはいうけれど

今回の不況と大恐慌を同じと考えていたとすれば大きな間違いだろう。

異なる大きなポイントは今回の解決策として第二次世界大戦はないだろうし、よしんばあったとしても核のあるこの世界では経済効果が前と同じように期待できるとは思われない。

さらに金本位制を取っていたということ、金融資本主義のレベルが違いすぎるということも大きい。

私見によれば今回の不況は金融資本主義の崩壊である。
金融資本主義はこの人口爆発する世界をまがりなりにも保ってきた。
まがりなりにもとは世界中がくまなく順調だったわけではないからだ。

金融資本主義の無秩序な暴れぶりは経済成長しなければならない世界の宿命であったように思う。
経済成長が至上命令なのは人口成長と密接につながっている。

資本主義下では金を稼ぐしか人に生きる道はない。
その金は物を売って得るのだが、その目をはっきりあけて見つめてみれば、じつはわれわれに売るものなどほとんどないのだ。

衣食住とは言うが、本当に必要なものは食であり、衣も住もそこそこでよかった。
さらにそれに付随するものにいたっては必要なものではない。
奢侈品と呼ばれるゆえんだ。

にもかかわらず売らねばならないのは人口爆発が生み出した多くの人々が食っていかねばならなかったからだ。
(もちろん食う手立てのない人々はいて、彼らは死に続けている。アフリカや中南米のいくつかの国を見てみればいい)

さて、貧困に苦しむ国はさておき(これが主要国の立場だ)、食べていくためには大量の金を流通させなければならない。(たとえその流通に歪な流れが生じようとも)
この歪な富の再分配過程には多くの不必要な商品が必要となった。
その代表格が、ローンを含む金融商品である。

もちろん過剰な広告でわれわれを踊らせ買わせ続けた家電商品やクルマも大きいが象徴的には金融商品が槍玉に上げられるだろう。

問題は、金融資本主義の崩壊とともに売れる商品がなくなりつつあるということだ。
購買される商品はなくなり、富の再分配は滞る。
富をすでに持っている者たちはそのままその場所に居座り、富の蓄積のないものはひたすらに堕ちていく。
街は犯罪に染まり、一方でぬくぬくと生きる連中はこの世を謳歌する。
あの連中にとって不幸な人間を見ながらの謳歌は特別なものらしい。

金融資本主義が崩壊したとすれば、過剰な広告による奢侈品の購入のばかばかしさにわれわれが気付いたとすれば、もう一度あの時代へと後戻りすることはできない。

そうなったとき、もっとも大きな問題は、後戻りできなければ過剰な人口は捨て去られるということだ。
各国ブロック経済の様相を呈し始めている。
ヨーロッパでは他国の労働者に対する排斥運動も起こり始めた。
日本も他国からの労働者に対しては過酷な仕打ちをしている。

百年に一度とは言うが、今回の不況の乗り越え方は前回以上の悲劇を伴う。

まずは不自然に人口が減少していくことだろう。
そして、輸出できなくなっていくなか、われわれの産業構造は第一次産業に力を入れていくしかあるまい。
助け合って生きていくのならば、大きなブロックとしてアジア共同体を構想する手立てはある。
あるが、その方向への道は困難を極める。

あぁ、と嘆息してみてもいい。

今の不況に満州はない。
「満州は日本の生命線である」の満州がないのだ。

日本は農業自給することでしか生き抜くことはできまい。

だれが不必要なクルマや液晶テレビを買うものか。
今回の不況は百年に一度の不況などではない。
人類が始めて経験する歴史を大きく引き返すか否かの選択を問われている不況なのである。

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