2009年10月29日木曜日

加藤和彦について

加藤和彦について有象無象がいろいろのことを語っているが、彼の自死を自分勝手に解釈し、その解釈をさも立派な正解のように語っているのを見ると唖然としてしまう。

もちろんそのように語り手は解釈してもいいのだが、それはただただあなたにとってそう見えるだけで、手前勝手なお話しにしか過ぎない。

加藤和彦は逝ってしまったのだからもう応えることは出来ないが、少なくとも彼はそういう問答をあなたちに欲したわけではない。
不意に消えてしまいたくなっただけのことだ。

不意に消えたいと思うのは、生きている実感がなくなったというか、生きている自分がただふわふわと浮かんでいるに過ぎない泡なのだと思い、その泡でいることにイヤになったのだろう。
もちろん、そう想像しているわたしがいるだけで、これが正解でもなんでもない。

ただ、わたしは常に加藤和彦側の人間であるのだから、彼を悪くは言わないし、そういう議論で彼の死をもてあそぶやからが好きではない。

彼の死にも多くの問題が横たわっており、それは出典を隠して単なる問題として議論すればいいことで、そこに加藤さんの名を持ち出すのは生きている側の不遜だ。

人は自ら死を選び取れるし、死を選び取ったことを批判されるような哀れな存在ではない。

選び取られた死に対し、われわれは嘆くしかなく、もし嘆くような関係を生前彼と結んでいなければ、そのときは黙っておくものだ。
人の存在がいかに不安定なもので、何によって支えられているかも考えていないガキがうるさいんだ、と思ってしまうではないか。

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