2010年1月31日日曜日

虜囚と化した「わたし」

心と身体というが、このわけ方は怪しいものだ。
そもそもこの肉体は、ほんとうにわたしなのかという根源的な問にぶち当たるすぐれた感性の持ち主がいる。

知的にはこの問題は市川浩やメルロ・ポンティやその系譜を担う連中が扱っているが、彼らに事の重要性は本当に見えているのかどうか怪しい。
それよりも「DIR EN GREY」の京のほうがずっと哀切にこの問題を直感的にわかっている。

以前のコンサートにおける彼の自傷行為やあれほどまでにこだわる「痛み」への思いは、自分の身体のなかに虜囚と化した「わたし」がいるのではないかと気づいたことによる。
そのことを京が意識的に気づいているかどうかはここではあまり問題ではない。

気づくという行為が、意識に上るということであれば、その段階で「気づき」は表現されるものとして、やつれてしまっているからだ。
表現者は、ただ、何もわからずに感づいていればいいのだ。

自分の肉体でさえも「わたし」であるかどうかの疑問にさらされることを。
そのとき「わたし」への通路としての「痛み」が登場する。

多くの観客の前で、口腔をえぐり血を流して見せるのは、パフォーマンスである一方で「わたし」へ向けた壊れ物のような呼びかけだ。
彼の歌に込められた思いは他ならぬ「わたし」への思いだ。

そのときに、かれは「わたし」が閉じ込められた存在であるということを知っていたのだろうか。

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