2010年1月12日火曜日

自己表現

自己表現にこだわることの哀しさをさらに続けて説明すれば、こだわればその場所にとどまらなければならない哀しみが産まれるといっている。
この世のすべてをそのまま眺めることの先が、描くことまで続いていくのなら、それがいいに決まっている。
自己などという小さなもので己の見たものの邪魔をしないほうがいい。

自己表現にこだわるということは、自己という窓からしかものを見えなくするということだ。

もちろん技術的には、書くことのほうが大きいかもしれないが、大切なものは見聞きしたものの中にあって、それは素直に自分に取り入れるほうがいい。

武満徹が音楽家にとって大事なのは聴くことだといったのはその意味でだろう。

だから、逆説でもなんでもなく、あらゆる表現者にとって自己は大いなる障壁になる。
正確に書けば自己という意識は大いなる障壁になる。

そのような意識のないところにも自己はあり、おそらくそこにある自己はあなたの思っているものよりとてつもなく大きいものだろう。
それは、もちろんわたしにとってでもある。

だからこそ、ただ不器用に描くことのなかに自己に触れる瞬間がやってくる。
自己とはそのように相対すべきもので、ちっぽけな意識のなかに閉じ込めて自己表現するものではない。
そういう意味で、こざ賢く作り上げたものは、とうとう自己にたどり着かないでしまう。

ややこしい書き方だが、自己に触れたいなら、あえて自己とかかわらない方がいいといっているのです。
自己表現は、哀しい作業です。

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