2010年1月12日火曜日

かけら


青山七恵『かけら』を読む。
こういった類の本には注意しなければならない。
小説の書き手が、その作品の中にいるようでいて一歩も二歩も下がっているからだ。
そのように私を消して、物語を立ち上げている。
といってもこの場合の物語はきわめて物語性から離れた筋の薄いものなのだが、それでもかろうじて読者を引っ張る力になっている。
このあたりが見えてくれば、川端賞受賞が取れた根拠も見えてくる。
作者が小説世界から消えてしまっていて、わずかな物語性が残っていること。
それがコツだ。
小説が自己表現だといっているうちは、いつまでたっても小説は書けない。
それは何も小説に限ったことではなく、音楽でも絵でもそうで、そこには自己表現などないほうがいい。
むしろ正しく語れば、表現するという行為のうちに自己は出没するのであって、その表現が自己を表現したものであろうとなんであろうとかまわないのだ。
表現しているのがあなたであれば、そこには必ずあなたが現れる。
それをわざわざ自己表現などと言わなければならないのは、あまりにも韜晦から程遠い、淫らな言い回しだと感じる。
大切なことは己を書こうとしないこと。
書こうとしなくても己から離れはしないのだ。
そういうことは書いているものを他人に見せているうちに気付く。
他人にとって作者の自己なんぞはうるさくてかなわないのだ。

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