2009年2月24日火曜日

平和とは


平和とは戦争の対極を言うのではなく戦争と戦争の間を言うと語ったりもする。
だとすれば日本は長い平和を保っている。

「戦場のピアニスト」を見た。
まさに戦争に翻弄されるポーランド、ユダヤ人たち、そのなかの一家族、とりわけ一人のピアニストを描いた映画だが、随所にポランスキーの映像が映し出される。(映画だからね)
戦争の理不尽さは十分そこに見られるし、そのなかで人がどう動くかも象徴的に描いてみせる。

まあ、それはいい。
どうしていいかというと社会というのは戦争という装置を通さなくても十分にわれわれに対して非道だからだ。(今でさえも)
その非道さから逃げるためにはカポーとなるにかぎる。
カポーという制度は統治するにすぐれた方法だ。

あなたも身の回りにかポーを知っているはずだ。
それは必然的に社会が生み出すものだから。

最近、2008年の自殺者数が発表された。
自殺者はさらに増え続けており3万人を余裕で越えた。
10年以上もこの数の自殺者を出すこの国は戦争状態と大きく変わるものなのだろうか。
自殺者の多くは社会が抹殺したものと考えていい。

日本の二十代、三十代の死因の第一位は自殺だという。
異常なことだろう。
個別にはいろいろな理由があるが、大きくいえば社会が抹殺したのだ。
そのことは深く検討に値する。

この国が平和だというのならば、それは緩やかな戦争と言い換えてもいいのではないか。

われわれは実はとんでもないところで生きていると考えてみよう。
悲惨な現状をコーティングするのはやめてしまえ。

絶望的であるのはいい。
しかし、絶望的である状態にありながら絶望的であることを知らないのは哀しい。
出所がないではないか。

今やこの国は何ものかが猖獗を極めている。
それが見えないことが最も恐ろしい。

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