藤田まことも死んだし、浅川マキも死んだ
なじみのある人が次々と死んでいき、嘆息することがある。
彼らへの哀悼ではない。
未だに生き続けるわたしへの哀悼だ。
頭の中をゆっくりと巡らせれば、死への逡巡も生まれるだろうが、ただぼんやりとしていれば死は懐かしい円環に思える。
わたしは、以前語ったように死なせてくれない何ものかに対し、修行のように俯き加減に生きている。
修行と思えば、生きていける、そういう気分がある。
その一日、一日がどのような形態をとるかは自ら確認していくしかないが、ときにはそう悪くもないと思うこともあって、それも含めての修行だ。
そういえば、タイトルに挙げた藤田まことも浅川マキも修行のような人生だったのかもしれない。
本人達の自覚とは別に。
藤田まことは東京都豊島区生まれで長く東京に居たはずである。
それにしてあの大阪弁である。
根っからの役者であり、実人生ともに演じ続けた人であったのかもしれない。
もっともこんなことは特筆することでもなく、自分の姿に一度も接することなく逝ってしまう人は多い。
演じていることも知らず、演じたまま死んでいくのだ。
踊らされていることも知らず、踊らされ続けるのだ。
それでもその人の人生かと問われれば、そうだと応えるしかあるまい。
彼らへの哀悼ではない。
未だに生き続けるわたしへの哀悼だ。
頭の中をゆっくりと巡らせれば、死への逡巡も生まれるだろうが、ただぼんやりとしていれば死は懐かしい円環に思える。
わたしは、以前語ったように死なせてくれない何ものかに対し、修行のように俯き加減に生きている。
修行と思えば、生きていける、そういう気分がある。
その一日、一日がどのような形態をとるかは自ら確認していくしかないが、ときにはそう悪くもないと思うこともあって、それも含めての修行だ。
そういえば、タイトルに挙げた藤田まことも浅川マキも修行のような人生だったのかもしれない。
本人達の自覚とは別に。
藤田まことは東京都豊島区生まれで長く東京に居たはずである。
それにしてあの大阪弁である。
根っからの役者であり、実人生ともに演じ続けた人であったのかもしれない。
もっともこんなことは特筆することでもなく、自分の姿に一度も接することなく逝ってしまう人は多い。
演じていることも知らず、演じたまま死んでいくのだ。
踊らされていることも知らず、踊らされ続けるのだ。
それでもその人の人生かと問われれば、そうだと応えるしかあるまい。
ラベル: 日常 考察
0 件のコメント:
コメントを投稿
登録 コメントの投稿 [Atom]
<< ホーム