厭世家
生きるのに意味はないというのがわたしの思考の始まりですから、すべてはここから始まります。
意味がない世界を生き抜くのが大変なので人は生きていく物語を作り、それを当然としました。
その物語は生れ落ちたその時点で社会から提供されており、知らず知らずの成長のなかで我々はその物語を受け取り、そのストーリーに準じて生きることのなかで幸せと社会が教えた生活を獲得していきます。
それは言ってしまえば、ゲームのようなものです。
けれどもゲームよりはのっぴきならないものとして位置づけられております。
そのゲームに参加していないわたしにとっては生きることはそのまま苦痛以外の何ものでもありませんが、生きる意味のないわたしには死ぬ意味もないのだからと、瞑目して修行のつもりで存えております。
そういうわたしが、厭世家になるのは当然の成り行きで、ごくたまに陽射しを感じる時間があることにひと息をつきます。
先ほど書いたバレンタインの嫌さがわかろうというものではないですか。
もちろん、提供された物語のなかで生きているのであれば、この呟きは偏屈な老人のたわ言にしか聞こえないのでしょうが、もしや物語の外で生きている人がいるかとも思い、ここに記しておきました。
意味がない世界を生き抜くのが大変なので人は生きていく物語を作り、それを当然としました。
その物語は生れ落ちたその時点で社会から提供されており、知らず知らずの成長のなかで我々はその物語を受け取り、そのストーリーに準じて生きることのなかで幸せと社会が教えた生活を獲得していきます。
それは言ってしまえば、ゲームのようなものです。
けれどもゲームよりはのっぴきならないものとして位置づけられております。
そのゲームに参加していないわたしにとっては生きることはそのまま苦痛以外の何ものでもありませんが、生きる意味のないわたしには死ぬ意味もないのだからと、瞑目して修行のつもりで存えております。
そういうわたしが、厭世家になるのは当然の成り行きで、ごくたまに陽射しを感じる時間があることにひと息をつきます。
先ほど書いたバレンタインの嫌さがわかろうというものではないですか。
もちろん、提供された物語のなかで生きているのであれば、この呟きは偏屈な老人のたわ言にしか聞こえないのでしょうが、もしや物語の外で生きている人がいるかとも思い、ここに記しておきました。
ラベル: 日常
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