2010年2月8日月曜日

あるライブ取材の文章を読んで

見る人ごとに見る観点は違うのだから、理解はそれぞれに違ってくる。
それは、見る人の関心によっても、あなたの置かれた問題状況によっても違ってくる。

あたりまえのことだ。

ある人のライブに関する感想もまったく同じ文脈にあって、様々な場所に遍在する解釈のひとつにすぎない。
そのような「one of them」の存在でしかないことを意識して、ライブ取材の文章を一つの文章として提示するときから、文章はたった一つの文章として存在を彩り輝く。

たとえば、それは、一つのライブに接したとき、それぞれの観客がそれぞれの印象を抱くことに担保を置いている。
そこには決められた典型的な一つの反応があるわけではない。
ただ、そこに集まった数ほどの多様性が存在し、それぞれが楽曲に合わせ独自に反応しているだけだ。
それが、導かれ教えられ決まった反応でしかしないのだとしたら、そこには閉じられた世界があるだけでしかない。

この世が知らないうちに閉じられてしまったように会場も知らないうちに閉じられた空間になってしまったのだ。
出来るものなら、開かれた系としてそこにありたいものだ。
そこがどんな場所であったとしても。

わたしの感想は、「one of them」として彩られ、誇り高くありたい。
何の特殊性も要求しない。
わたしであることだけに胸を張っていたい。

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