自分の世界への招待
ひとは異物や未知のものとの出会いを恐れる。
ここでは、異物と未知のものとに分けたが、未知のものも異物の範疇に入るのだから、異物と一括しても構わないだろう。
要は、自分の世界にすんなりとなじまないものを人は毛嫌いしてしまうのでございます。
馴染まぬものを取り入れるときに行う自己を再編成する作業を恐れているのだろう。
自己を再編成するときには自己の状態を検証しなおさなければならない。
検証する時には当然に自己批判が生じてくる、自己批判はいまの自分の存在を危うくする要素が含まれているためにそれを人は避けてしまいたいのだと思う。
今まで平穏無事に生きてきた自分の状態をそのまま認めて、そのまま生きていきたいのに、何故に邪魔をするのか、そういう気分なのでございます。
というわけで、異物とであったとき、未知のものとであったときに、人はそれを無視するか、自分のパターンに当てはめて認知するのである。
無視には軽いものから始まり、村八分も入れば刑務所や病院や学校による隔離もある。
とにかく遠ざけてしまいたいのでございます。
パターンに当てはめるというのは、その人間の個別性を無視してただ血液型だけでいろいろと特徴をあげつらったりすることである。
あほな作業です。
というような作業に代替させて異物との出会いを避けるのである。
けれども本当のことを言ってしまえば、異物と出会いつづけ、そのたびに自己を検証し変化しつづけることで新たな自分に出会うことこそが醍醐味なのだが、この醍醐味にはわずかな危険が孕まれているために人々に毛嫌いされるている。
タイトルの「自分の世界への招待」は耳に心地よく聴こえるが、その実、今の自分を守りつづける汚辱にまみれた行為なのである。
守っている自分などそうたいしたものでもなく、昨日と同じ明日が来ることを願うのはさっぱり埒のあかない薄汚れた願いなのだろうと思う。
もちろんそれでも守りたく思う人がいるのなら守ることに否やはないが、異物を必要以上に毛嫌いしてもらいたくはない。
この世は異物が充満している。
ただ、押し着せられた物語で糊塗されているだけのことなのでございます。
稚拙な文章で失礼致しました。
ここでは、異物と未知のものとに分けたが、未知のものも異物の範疇に入るのだから、異物と一括しても構わないだろう。
要は、自分の世界にすんなりとなじまないものを人は毛嫌いしてしまうのでございます。
馴染まぬものを取り入れるときに行う自己を再編成する作業を恐れているのだろう。
自己を再編成するときには自己の状態を検証しなおさなければならない。
検証する時には当然に自己批判が生じてくる、自己批判はいまの自分の存在を危うくする要素が含まれているためにそれを人は避けてしまいたいのだと思う。
今まで平穏無事に生きてきた自分の状態をそのまま認めて、そのまま生きていきたいのに、何故に邪魔をするのか、そういう気分なのでございます。
というわけで、異物とであったとき、未知のものとであったときに、人はそれを無視するか、自分のパターンに当てはめて認知するのである。
無視には軽いものから始まり、村八分も入れば刑務所や病院や学校による隔離もある。
とにかく遠ざけてしまいたいのでございます。
パターンに当てはめるというのは、その人間の個別性を無視してただ血液型だけでいろいろと特徴をあげつらったりすることである。
あほな作業です。
というような作業に代替させて異物との出会いを避けるのである。
けれども本当のことを言ってしまえば、異物と出会いつづけ、そのたびに自己を検証し変化しつづけることで新たな自分に出会うことこそが醍醐味なのだが、この醍醐味にはわずかな危険が孕まれているために人々に毛嫌いされるている。
タイトルの「自分の世界への招待」は耳に心地よく聴こえるが、その実、今の自分を守りつづける汚辱にまみれた行為なのである。
守っている自分などそうたいしたものでもなく、昨日と同じ明日が来ることを願うのはさっぱり埒のあかない薄汚れた願いなのだろうと思う。
もちろんそれでも守りたく思う人がいるのなら守ることに否やはないが、異物を必要以上に毛嫌いしてもらいたくはない。
この世は異物が充満している。
ただ、押し着せられた物語で糊塗されているだけのことなのでございます。
稚拙な文章で失礼致しました。
ラベル: 日常 考察
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