2010年2月12日金曜日

朝青龍の哀れ

朝青龍の振る舞いはときに常識人のワクを飛び出す。
そのことはまずいだろうが、直せばいいだけのことだろう。
常識人のワクならいいが、相撲のワクは少し小さいし、横綱のワクは更に小さい。

その小さなワクの存在を意識の中に常に置くようになるためには、時間を要する。
色々な機会にそのワクの存在を多くの人が伝えなければならなかっただろう。

伝えなかったために朝青龍は、ワクがわからないまま生きる羽目になった。
結果、あのような相撲取りを生んだ。
それは伝えなかった側の責任でもある。

横綱の品性という。
けれどもそれが何かを知るためには品性を受け入れる入れ物を胸の中に作り上げるしかなかった。
朝青龍は強くなることに己をかけ作り上げてきた。
その結果、横綱の品性を受け取る入れ物を胸の内にとうとう持つことができなかった。

朝青龍という結果を見れば、いくつかの叱責はできるだろう。
けれども、そのように彼を作り上げてきたのは彼一人の作業ではない。
彼は強さを作り、相撲界はそれを興行の振興に反映させた。

自分たちが彼の中に作り上げなかったものをいまさら彼に要求してもな、と思う。
けれども、そんなことはお構いなしに、この社会は鬱憤を晴らすようにいつまでも彼をねめまわす。

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